春の夜

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春の夜

 静寂に包まれた駅の改札前。 就職祝いで貰ったばかりの真新しい腕時計をチラリと見ると、針は午前一時過ぎを指していた。 新人歓迎会で調子に乗って三次会まで参加した結果、気付けばこんな時間になってしまっていたのだ。 就職して都会に出てきたとはいえ、 流石にこん な時間まで電車が動いているはずが無い。 「どうしよ......」  吐息とともに漏れた声が、 煌々とした深夜の街に吸い込まれる。 このまま家に帰れずに夜を明かすこ とになれば、明日の仕事に響くことは目に見えている。 まだ入社して1ヶ月も経っていないのに、つまらないことで上司からの印象を悪くしてしまうのは非常に不味い。 「じゃあ、ホテルに行くか」  途方に暮れて頭を抱えていると、 唐突に隣で声がした。 とは言っても、 赤の他人がいきなり傍に現れた訳ではない。 今まで沈黙を貫いていた同行者がいきなり口を開いたのだ。  隣に立つ無口な同行者の名は氷雨 懍ひさめりん。 真面目でクールな俺の教育係だ。 不満・不備があれ ば上司にも物怖じせず異議を申し立てるような人で、 笑っているところをまず見たことが無い。 こんな時間まで飲み会に残るような人種には思えなかったが、 今日見ていた限りでは案外楽しんでいたようだ。 そこそこアルコールに強い方である俺と同程度のペースで飲んでいたし、仲が良いらしい女性とは会話も弾んでいた。 それでも笑顔は見せなかったけど。 全く見上げたポーカーフェイスっぷりだ。  いやいや、今問題なのはそんなことではなく──。 「な、何言ってんすか! 男女でホテルって、 言ってる意味わかってますか?」 氷雨 懍が、女だということだ。  決してそういうことが嫌な訳ではない。 彼女の容姿は控えめに言ってもかなり良い方だ。 俺としても少なからず個人的興味があることは否定できない。 しかし物事には順序というものが......。  等と悶々と考えていると、涼しい声が返ってきた。 「勿論わかっているよ。タクシー代を払うよりここで泊まったほうが安く済む。それに私は明日の出勤が早くてな。 今から家に帰ってもあまり眠れない。 それに君もまだあまりお金は持っていないだろう? 何なら今日の所は私が持っても良いが」  俺が言いたいのはそういうことではないのだが...... 。まぁ、 先輩がこう言ってくれているのだから、それに応えるのは吝かではない。 据え膳食わぬは何とやら、 だ。 「はぁ......。 ならお言葉に甘えて…って、 流石にお金まで払ってもらうのは悪いですよ!」 「そうかい? まぁ、 着いて来たまえ」  無言で先を歩く先輩におとなしく着いて行くこと数分。 先輩がいきなり立ち止まって、小さなコンクリートのビルを見上げた。 「ここだ」 「ビジネス...... ホテル?」  意表を突かれて間の抜けた声を出してしまった。 先輩は俺の反応の意味がわからないらしく、首を傾げる。 「何だと思ったんだ?」 「い、いえ、な、何でもありません!」  自分でも呆れるくらい下手な誤魔化しだったが、先輩は大して気にするそぶりも見せずに、そのままホテルの中に入っていくので、 俺も慌てて後に続いた。  先輩は受付で手早くチェックインを済ませると、 少し離れて見ていた俺に鍵を投げ渡してきた。 彼女も同じ意匠のものを手に持っている所を見ると、どうやら部屋は別々ということらしい。ここまで来ればもう予想はついていたが、やはり何というか、微妙にずれた人だ。 今度は余計な反応をすることもせず、 連れ立って鍵に書かれた番号の部屋に向かう。 案内板に従ってしばらく進むと、 案外早く目的の部屋に辿り着いた。 「じゃあ、私は隣だから。 おやすみ」 「ああ、はい。今日は色々とありがとうございました」  一言挨拶を交わして、 先輩は言葉通り一つ奥にあるらしい部屋に向かった。 ピシッとした、体幹のブレない綺麗な姿勢で歩く彼女の後ろ姿を見て、 新人歓迎会のときからずっと気になっていたことを、今なら聞けるような気がした。 「あの、先輩」 「ん、何だ?」 「どうして、こんな時間まで帰らなかったんですか? 俺みたいにああいうイベントが好きな風にも見えませんし……それに、明日も早いんですよね?」  言うと、先輩は一瞬驚いたように目を見開いて── 「...... 友人に、どうしてもと泣きつかれてな。 断れなかったんだ」 照れたように、 小さく微笑んだ。
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