先輩と先輩

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先輩と先輩

 順調に下がっていく気温を肌で感じて、ふっと息を吐く。 この息ももうしばらく経てば白く染まるのだろう。 冬は嫌いではないが寒いのは苦手だ。 冬はつとめて、 と言うが、あれは 嘘である。 冬は仕事から帰ってきてこたつに直行するのが最高の楽しみだ。 秋は夕暮れ、これには全面的に同意する。 夕暮れが秋のものだというイメージは、一年の中で秋は空気が最も澄んでいる季節で太陽光がよく届くため、 夏から秋にかけて日が短くなってきて太陽が沈 むのを意識しやすいため、 という大別して二つの理由があるらしい。 その割に俳句だと夕焼けは夏の季語だったりするのだが。  そうこう益体もないことを考えていると、いつの間にか職場のデスクに座っていた。 既にPCも起動されている。 どうやら私はオートパイロットモードになっていたらしい。 何も考えずに仕事の準備が出来る程度には会社に馴染んだということだろうか。 今日の分のタスクは昨日のうちに整理してあるから、あとはこれを勤務時間内に機械的に処理していけばいいだけだ。 こう言うとつまらなそうな仕事だが、 自分ではそこそこ気に入っている。 「さて、 と......」 「あ、ちょっといいかな?」  気合を入れて仕事を始めようとしたところで、ちょうど後ろから声がかかる。 振り返ると、見慣れた顔があった。 入社したばかりの頃からいつもお世話になっている先輩だ。 「おはようございます、 先輩。 何か用事でしょうか」 「うん、おはよう! まぁ用事なんだけど、 私じゃなくて部長がね」   オフィスの奥に目をやると、 営業部長の貫田 雄三ぬきたゆうぞうがこちらを見ていた。 目が合ったことに気付いてひらひら手を振ってくる。 部下と仲良くやっていくのも処世術なのだろうが、 ああいう部分があまり好きになれない。 仕事ぶりも無能だとは思わないが部長として優秀かと言えば微妙な所だ。 しかし個人的にどう思っていようと上司の呼び出しを無視することは勿論出来ない。心の中で密かに溜息を吐いて立ち上がる。 「仲良くしなきゃダメだよー?  部長も頑張ってるんだから」    ポーカーフェイスには自信があったのだが、 先輩には見抜かれてしまったらしい。 この人には本当に隠し事が出来ない。 仲良くするのは難しいが、先輩のお達しだ。 上手くやり過ごすくらいはしてみよう。 わかりました、と頷いて、 部長の席に向かう。 「やあ、ごめんね。 こんな朝っぱらから呼び出しなんかして」 「いえ、 仕事ですので」  済まないと思うならやめて欲しいが、それだけ急ぎの要件ということだ。 素っ気なく返して続きを促す。 「ウチの部署で立ち上がったあの企画あるだろ? 売り子がハロウィンのコスプレするってやつ。 客ウケが上々だって宣伝部が喜んでてさぁ」  前置きは良いから本題に入ってください。 と一瞬口に出しそうになって、 先輩の言葉を思い出す。 そういうことをすぐ言ってしまうのは、自分でも自覚している短所だ。 改善する努力は必要だろう。 「で、 その企画関連で頼みたいことがあるんだけど」  我慢していると、 案外早く要件を言う気になったらしい。 いつもなら部長の前置きをこちらが止めないと一向に話が進まないんだが......もしかしたら、 止めなくても毎回この程度で切り上げるつもりだったのかもしれない。そうだとしたら少し悪いことをした。  ── ハロウィン企画。 営業部から、というより具体的には、今もこちらの様子を微笑み混じりで伺っているあの先輩から出たアイディアだ。 売り子がコスプレをするのは良いが、 去年は何故かその売り子を営業部女性社員から選出することになってしまっていた。 とは言え基本的には当然立候補制なので、 何事もなく準備は終了して明日の本番を待つのみとなっている。 こんな直前になって何か問題が発生したのなら、 それは確かにまずい。 ……が、 それなら現時点で部署全体がもっと慌ただしくなっていて然るべきだ。 まだまだ若輩の自分だけが呼び出されて、他の社員が事情を知らなくても良いというのがどういう状況なのかまだわからない。 「君に売り子をやってもらいたい。 どうしても行けなくなったという子が一人いてね」 「...... はい?」 「押し付ける形になって本当に申し訳ないが、 君に任せるのが一番ダメージが少なくて済むと判断した。 宣伝として既に売り子の写真を流してあるから、 当日になって替え玉というの はあまり宜しくない」 「何故私なら良いのかがわからないんですが」 「......客観的に見て、 君がここで一番レベルが高いからだ。 やってくれるね、 氷雨くん」 会社付近のレストランで先輩と昼食をとりながら、 今朝のことを思い出す。 あの後もしば らく抵抗したが、割り込んできた先輩の口添えによって結局了解してしまった。 というか部長のあれは若干セクハラではないだろうか。 「はぁ......」 「ごめんってばー。 でも懍ちゃん可愛いし絶対大丈夫だよ!」 「......まぁ請け負ったからにはキッチリこなしますが......」 「流石、 真面目だねー。 ……お、アレ後輩くんじゃない?」  先輩が顔を向けている方向を見る。 確かに今店員に話し掛けられている男は、 私が教育係を担当している新入社員の三伏郭嗣みぶせひろしだ。 こんな所で会うとは思わなかったが、会社からも近いし別段驚くようなことでもない。 「ふむふむ…... おーい」  なんてこと考えていると、 先輩は突然立ち上がって彼を大声で呼んだ。 いきなり何をやっているんだこの人は......  三伏ぎょっとしてこちらを見る。 当然だ。 彼は先輩と面識がない。 同じオフィスに いるのだから顔くらいは見たことがあるだろうが、 その程度の相手にこんなことをされて慌てない訳がない。 だが彼は隣に座る私の姿を認めると、何を思ったか躊躇わずこちらに向かってきた。 「お疲れ様です! こんな所で会うなんて、珍しいですね」 「お疲れ様、三伏。 悪いな、この人が」 「いえ。 何か用だったんですか?」  隣を見ると、 先輩は全く悪びれる様子もなくニコニコ笑って言った。 「ん、別にー? ただちょっと、 懍ちゃんの後輩くんに興味があってね」 「り、 懍ちゃん......」 「勝手に言っているだけだ。 こちら私の先輩の、 春崎萌香はるきもえか。 先輩、こいつは新入社員の三伏郭嗣です」  いつの間にか定着してしまっていた仇名をスルーして、互いを軽く紹介する。 「どうも、 春崎です。 まぁ座りなよ」   先輩が気軽にそう言うと、 三伏は恐縮しつつ四人掛けのテーブルの向かい側に座った。 ちなみに先輩は最初から私の隣に座っていた訳だが、いつものことなのでもう何も言う気になれない。 「随分仲がいいんですね」 「まぁねー。 この子が入社したときからの付き合いだし。 後輩くんも懍ちゃんとはそうでしょ?」 「そうですね...... あ、俺の方は高校の頃から知ってましたけど」 「え、なんでなんで!?」 「部活が一緒だったんですよ、 陸上部界での先輩は全国区で、 結構有名人でしたから。 俺の地元まで名前が聞こえてきてました」 「へー、 すごーい! ちょっと懍ちゃん、 私懍ちゃんが陸上やってたなんて知らなかったんだけど!」  三伏の話に目を輝かせていた先輩が、 急にこちらに向き直って顔を寄せてきた。 「知らなくてもいいでしょう……というか、やめてください。 そんな大したことじゃありませんよ」 「大したことだよ!  懍ちゃんの高校時代の話、 もっと聞きたいなー」  忙しない人だ。 私はもう慣れてしまったが、 初対面の三伏は既に若干疲れているように見える。 「それより先輩、 聞きましたよ」  その証拠に、この露骨な話題転換だ。 いったい私の何を聞いたというのか。 噂になるようなことをした覚えがない 。 「ハロウィン企画の売り子やるって!」  …… あった。 今朝の一件は多くの社員に目撃されていたはずだし、 近くの席の人には話の内容も丸聞こえだっただろう。 あれで噂にならない方がおかしい。 せっかく忘れかけていたというのに……。 「そんなわけないですよねー。 何であんな噂流れたんでしょう?」 「......いや三伏、 認めたくないがそれは事実なんだ…...」 「えぇ、そうなんですか? 先輩、 コスプレとか嫌いそうなのに」 「色々あってね。 一向に気は進まないが、引き受けてしまった以上やるしかない」   本当に気は進まないが。 まぁ明日一日やり過ごせば良いだけだ。 何とかなると思いたい。   「大変ですね...... でも先輩なら似合うと思いますし、頑張って下さい!」  三伏はそう言って、両の拳でガッツポーズをした。 「あ、先輩方、 すいませんが俺はまだやることが残ってるので、これで失礼します」  随分がつがつ食べるので、これが男の食欲かと少し驚嘆していたのだが、 急ぎの用があったらしい。 「うん。 今度また誘うね」 「ありがとうございます。 楽しみにしておきます」 そう言って店を出ようとしたところでふと立ち止まった。 振り返ると私に視線を向ける。 「先輩も、 また」 「...... あぁ、 またな」  わざわざ私に挨拶をするためだけに足を止めたのか? 食事中も先輩が喋りっぱなしで私がほとんど口を開いていなかったことに気を使った、とか? よくわからん奴だ。 そんなことを考えながら今度こそ店を出た三伏くんを見送ると、 再び先輩と二人きりになった。 「ふーん、やっぱり......」  先輩が思い出すようにぼそっと呟く。 「何がですか?」  訊くと先輩は流し目にこちらを見て、 口角を吊り上げる。 他の人が同じ表情をすれば『悪どい』 というような印象になるのだろうが、 彼女の場合はその栗色のゆるふわっとした髪と、男女問わず憧れるであろうそのフェミニンでモデルの様な顔立ちから、人格が滲み出ているのか非常に可愛らしい。 「ふふん、 おねーさんにまっかせなさい!」  先輩は人差し指を立てて私にウィンクした。
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