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不二の正義
車道の半ばで止まるタクシーは、暗がりをギラギラと赤く照らす。この点滅する赤色の光は、タクシーの社名表示灯が発する緊急信号。
つまり、何らかの事件がこのタクシーの中で起きていたのだ。
「大きな忘れ物のアンタは忘れ物センターに置いてもらえ。人の心を思い出すまでな」
井上は上から下へ体重を押し付け、青年を組み伏せていた。青年の上に乗るこの男は、中年でありながらも、培ってきた経験により優位に立っている。
「アァッこんのジジイッ! 放せ!!」
青年は井上による拘束から逃れようと叫び、身じろぎをする。
「人の心を忘れた、その悪い心は良くないねぇ」
「違う、違う! 俺は悪なんかじゃないッ!」
青年はまた身じろぎをする。先程よりも力強く抵抗されて、井上は少しばかり焦るが青年の抵抗はすぐに止まる。
「なあ、放してくれよ。早くッ! 俺には帰る理由があるんだッ!」
「……ヘェ、訳によっちゃ逃したるよ」
さほど解放する気などはないが、青年の主張する訳というものを、井上は聞いてみたくなったのだ。
「……俺が帰る理由は、妹の為だ」
「ヘェ、妹の為か。なら何故人を殺す必要があったんや、答えろ」
車内に落ちている、血がこびり付いた包丁。この包丁から青年へと目を移して質問する。
「金が必要だった、妹を守る為に。だから殺した」
「周りから借りることはできんかったんか? 親は?」
「居ない」
この青年の事を少しばかり不憫だとは思う井上であるが、同情までには至らない。
「それでも、人を傷つけ、殺すのはあかんやろ。度を超えとうがな」
井上の価値観は揺るがず、青年へとその正義をぶつける。
「おっさんは、妹が死ぬべきだったと言うんだな。食いもんもなくて住む場所もなかった中で、そこから抜け出すにはそれしかなかった。だから……」
「それしかないから人を殺してもいいと? でもそれは正当化や。人を殺すアンタが悪い」
「違うッッ!!」
青年はこの会話の中で一番に語気を強めて否定する。その声量に井上は気圧されそうになるも、拘束する手は緩めない。
「何で分かってくれないんだ……」
「それでもね、アンタは大きな忘れ物として——」
その時、青年の瞳から頬へと涙が伝う。
「確かに俺は、人を殺してきた。父親も、老人も。だけど、それは悪なんかじゃない、守りたい人の為の人殺しだ。俺は正しい」
守りたい人の為に父親をも殺すその精神に、共感を覚えてしまう。そう、井上にも同様な過去を秘めていたのだ。
「……父親を殺した理由はなんや?」
「妹を殺そうとした。だから殺して逃げた」
「母親はどうした?」
「母親はどこかに逃げた」
青年の真意を確かめるべく彼へもう一度、人を殺した所以を問う。
「全ては、妹の為にか?」
「俺が人を殺す時は、妹を守る時だ」
この青年の価値観に何故か井上は納得してしまい、彼を抑える手の力が緩みつつあった。
「じゃあ、アンタが警察に捕まると妹は死ぬんか?」
「死ぬかもしれない。妹は俺以外の人を拒絶する。側にいてやらないと生きられない」
手の力と共に正義感は緩み、彼の言葉に耳を傾けてしまう。もう井上は、この青年を見捨てる選択などできなくなっていた。
「……分かった。とりあえず、拘束は解いて逃げる手伝いしたる」
「本当か」
「あぁほんとや。じゃあ今から手ェ放すからな」
そう言って青年を組み伏せるその手を放し、彼は自由となった。彼は未だに不安そうな表情のままで、頬の涙を手で拭う。
井上は車内に落ちている包丁を拾った。そして、刃渡りの部分を布で包むと、鞄の中にあるビニール袋へと入れる。
「ま、こうなるとワシも大きな忘れ物扱いか……?」
「大きな忘れ物ってなんだ」
「隠語や。こいつが言っとったやろ? 佃長通りで大きな忘れ物、その後アンタの服装とか」
井上は無線機に手を置いて、青年に説明する。
「俺の事か」
「そうや、犯罪した悪い奴の事を指してる。マァ、そんな奴の共犯になったワシも、それと同じになってしもうたが」
青年に説明していると、隠語の指すものと自身が同類である事に気付き、井上は苦笑した。
「まぁそんなことより、早くタクシーから出て警察から逃げんで。緊急スイッチ押してもうたからな」
井上はハンドルの横あたりに指を指した。そこには、カバーが外され露出している緊急スイッチ。
「この無線機はGPS付きやから、この場所はバレとるよ」
何から何まで説明するその井上の言動は、彼に協力するという意思表示なのである。
「おっさんはどうしてここまで、なぜ助けてくれる」
「ワシとアンタが似ていたから、助けたいだけや」
そう言いながらタクシーの扉を開け、井上は車道に出る。
「それだけで?」
井上は質問に頷いて返すと、彼は井上の目を見つめる。
「そうか」
青年は井上と同じように、タクシーから車道へと出た。
「ヨシ、ワシに付いてこい。街まで行ってアンタに服買ったる」
青年の服は既に警察に把握されている為、このままでは発見されるのも時間の問題なのだ。
「おっさん、名前はなんて言うんだ」
「井上茂や。ワシの事はおっさんて呼んでればええよ」
「……俺の名前はこうせい。漢字は光に、生きる。妹に付けてもらった」
「…………ヘェ、光生か。いい名前やな」
妹に付けてもらったという事実に井上は驚くが、顔には出さず感想を述べた。
「当たり前だ」
そう自信ありげに光生は返事をした。
「というかおっさん、ここから街まで長いけど大丈夫か」
青年は狭い歩道の上を歩きながら、井上の身体を気遣った様な一言を掛ける。
「ヤァ、そりゃうっかり忘れてたなァ。ワシャ膝が悪くてなァ。背負ってくれねえかァ?」
「行くぞ、おっさん」
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