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「あ、裕太」と思わず小さな声が出た。
大学からの帰り道、電車に乗り込む私の隣の列に、彼は居た。
一瞬、もしかして聞こえたかも?︎ と焦ったけれど、耳に付けたイヤフォンの存在を見て胸を撫で下ろした。
──帰ってきてたんだ。
列の流れに沿ってドアをくぐり、流されるまま辿り着いた位置で、つり革を掴む。なかなかの混み具合だ。
私は車両の真ん中辺りに居て、そこから彼の姿を探した。
あまり首を動かさないように、目立たないように、なるべく気配を消して(たぶん消えてないけど)、眼球だけで彼を捕らえようとする。しかし、居ない。
あれ? 見間違いだったのかな──。
いや、確かに十年ぶりではあるけれど、子供の頃毎日のように一緒にいた彼のことを見間違えるはずはない。
それに、今までも祖父母の家(元実家)に帰ってきている裕太の姿を、遠目にではあるけれど何度か見かけたことはあった。
あの横顔と佇まい、全身からにじん出る空気感は間違いなく、裕太だ。
そういえば、先週、彼の祖母と偶然会った時、冬休みに裕太が久しぶりに帰って来ると自慢気に話してたっけ……。
ふと、もしかして──と思った。
え、待って。ほんとに? ……だって、この電車に乗ってると言うことは……そういうことだよね? 思わず、自問自答を繰り返す。
それもそのはず、私は今、家に帰る路線の逆向きの電車に乗っている。私の家と裕太の祖父母の家(元実家)はご近所さんだから、彼もまたその家とは逆向きの電車に乗っているということになる。
私が今日この電車に乗っている理由はただ一つ。ここから二つ先の『市駅』に大事な忘れ物を取りに行くからだ。
そして、私が今日そこに行く事を裕太は知っている。
いや、正確に言うと、裕太もあの日のことを覚えていれば今日そこに行くはずなのだ。
だから今、裕太が私と同じ『市駅』に向かっているのだとすれば──それは、彼も私と同じ場所に向かっている可能性が高いということになる。
まさかまさかまさかまさか。
胸の鼓動が急激に高鳴る。つり革を掴む手のひらに汗が滲んでくるのがわかった。
──はっ。
私、今、絶対ニヤけてる。
つり革を掴んでいる方の肩口に顔を埋めて、堪えるように目をきつく閉じた。
ダメだ。ニヤける。
車内アナウンスと同時に電車が減速を始めた。
駅に着いて何人かが降りていく。
私は窓の外のホームを歩く人の中に裕太の姿がないか必死で探した。
まさか『市駅』の一つ手前の駅で降りるとは考えにくいけれど、その可能性もゼロではない。
もし彼がここで降りてしまったら……さっきまでのニヤニヤは完全に私のぬか喜びということになる。
ドアが閉まって電車は再びゆっくり加速を始めた。
私は駅に降りた人の姿が見えなくなるまで窓の外を凝視する。
見る限り、彼の姿はホームのどこにもない。だとすればまだ車内に居るはず。
少しの安堵と緊張を感じながら、視線を車内に戻した瞬間、見つけた。
斜向かいのドアのわきに、彼は立っていた。
少し俯いてスマホを弄っている。
次の瞬間、彼がふと顔を上げてこっちを見た。私は咄嗟に目を逸らして、視線をもう一度窓の外に向ける。
どきどきどきどき。
恐る恐る横目で様子を伺うと、彼はまた少し俯いてスマホを弄っていた。
何となく視線を感じて顔を上げたら目が合った。そんな感じだったけど、一瞬でも目が合ったはずなのに彼の様子に変化はない。
私はその一瞬で彼のことを裕太だと確信したのに。彼は私に気付いていないのだろうか……。
そのおかげで今私の心臓はこんなに高鳴っているというのに──。
どうしよう。声を掛けるべきか、否か……。
この車内の混み具合だと、彼のいるドアの方まで数人の間をすり抜ければ行けなくもない。
そうやって声を掛けて、当然のようにあの日の話をして……だけど、それでもし裕太が覚えてなくて、『市駅』で降りなかったらどうしよう。
その時、私はものすごーく恥ずかしい思いをすることになるのではないのか……。
ならばいっそのこと私も彼に気付いていないことにして、このまま何もなかったように『市駅』で降りて──、あ、いや、待って。ならば、こうしよう。裕太も『市駅』で降りたら……声を掛けよう。
さすがに今日『市駅』で降りたなら、その理由はそれしかないはず──。
うん、うん。そうしよう。うん。私は心の中で何度も頷いて、彼の様子を伺いながら電車が『市駅』に到着するのを待った。
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