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成人式前の記念として、両親、祖父母と写真館に訪れた。
足の悪い祖父を支えながら上った階段。その先にある撮影用の部屋で、カメラマンの男がにこりと微笑んだ。花柄の壁紙に囲まれ、部屋の隅に撮影機材や椅子が散在した室内は、質素で所々に年季を感じさせる。
その光景を前にして、僕はふっと息をつく。部屋に漂う空気の味は、安心感がありながらも葬式場のような寂寥感を含む、矛盾を孕んだものだった。
「いやあ、お疲れ様でした」
愛想のいい笑顔のまま、カメラマンはそう言った。大体五十歳から六十歳あたりの見かけをしたその人は、祖父母よりは少ない皺を黒い肌に刻んでいた。
「エレベーターとか無くてごめんなさいね。うちも随分古くて。さ、準備が終わったら早速始めましょうか。最初はお兄さん一人だけで撮りますからね?」
カメラマンの指示を受けて、僕は頷いた。部屋の窓際に姿見があることに気づき、歩み寄って身なりを確認する。紺色のスーツはまだ大学の卒業式でしか着ていないはずなのに、心なしか窮屈に感じてしまった。
ネクタイをきつく締め直すと、喉から絞り出るように思わず溜息が漏れる。
特筆する理由があるわけではない。だけど何となく、写真は苦手だった。
「さて、では始めますよぉ。お兄さん、そこに立ってくださいねぇ」
カメラマンの人に促されるように、僕は入口横に敷かれた背景紙の上に立つ。表情が固いわよ、と窓際に待機する母に笑われた。
右足のつま先は正面に。それで両足はもう少し開いて。両手は軽くグーに握って。胸を張ってもう少し重心を前に傾けよう。あとは、一番面白かったことを考えて、笑顔に。
続々とくるカメラマンの指示に従って、徐々にポーズを整えていく。最初は抵抗があったのに、立ち振る舞いを撮影用に変えていくにつれて気分も前向きになってくる。相変わらず単純な奴だなと我ながら思う。
「良いですねぇ! そのポーズを維持してください! では撮りますよぉ」
その言葉を皮切りに、男はカメラを覗き込む。漆黒に透き通ったレンズの先。それと目を合わせた瞬間、不意に生気を吸い取られるかのような感覚に陥った。
……ふと、写真への苦手意識について思い起こされる。
嫌いな理由は特にない、なんて思ってたけどそうじゃなかった。ただ単純に、理由を言語化できないことが怖くて上手く誤魔化していただけかもしれない。そう痛感した。
写真を苦手とする理由。その断片が脳裏に蘇ってきたのと同時に。
カシャッ、とシャッターの音が木霊した。
幼少期は果てしなく感じていた二十年という歳月は、いざ歩んでみると一瞬のうちに過ぎてしまっていた。
目を瞑れば、今まで見てきた光景が暗闇の中で走馬灯のように、瞬いては消える。嬉しかったことも、悲しかったことも、むかついたことも、驚いたことも……色も形も違うそれぞれの記憶が脳内で数珠繋ぎとなって、僕という存在を構築していた。
でも、記憶と記憶を繫ぎ留める糸には、当然長さに限界がある。一つ思い出が生まれるごとに、その分の記憶が糸から抜け落ちて、気づいた時には消えて無くなっている。僕は人生の道筋の中でそうやって取捨選択を繰り返してきた。
だからこそ、たまに考えてしまう。僕は今までどれだけの記憶を捨ててきたんだろう、と。
その中には、かつて自分が宝物にしていた記憶も含まれていたんじゃないか、と。
シャッターの音は、そんな疑問に内在した罪悪感を蘇らせてくる。まるで薄情な自分を問いただすかのように、僕を責め立ててくる。自分の姿を遺す写真となれば尚更だ。
だから僕は、写真を撮られるのが苦手だった。
「はい、良い感じです! そしたらお兄さん、一旦ポーズを変えてみましょうか!」
ひとしきり撮り終えたカメラマンは、再び立ち姿の指示をし始める。無意識に入った撮影モードに縛られて、全身が硬直していた。
目線をカメラから少しずらしてみよう、という提案を受けてようやくレンズから目を離す。視線を移した先には、腕を組んで撮影を見守る父と母の姿。
また、記憶の波が脳に押し寄せてきた。
真っ先に浮かび上がったのは、三歳の頃に見た遊園地の記憶。
岩のオブジェクトに乗ると、遠くに洋風の城が見えて、その背後から西日が差し込んでくる。アトラクションの乗車中に比べたら何の変哲もない風景のはずなのに、この年の思い出の中で唯一、鮮明に残っている光景だった。
逆に三歳の時の記憶は、これ以外だと断片的にしか残っていない。二歳以下の記憶なんて、殆ど無いようなものだった。生まれたばかりの記憶なんて尚更だ。
言語化するには小恥ずかしいけど、両親は僕を二十年間、とても大事に育ててくれた。度重なる説教にうんざりしたり、家出したくなるほど嫌いになったりと、色んなことがあった。それでも、一人前の大人に育ててくれた恩は間違いなくある。
だから、怖くなってしまう。
三歳以前の記憶が抹消されたように、僕は両親と過ごした大切な時間を、いつか失ってしまうんじゃないか、と。
部活や試験の結果を褒めてくれた時も。
ゲームのやり過ぎで本体を没収された時も。
両親の結婚祝いのお皿を割って、一緒に泣いた時も。
進路のことで父と喧嘩して取っ組み合いになった時も。
今では全部、僕の一部を構成する大事な記憶だ。無くした時のことなんて想像もつかないし、そもそも許されざることだと思っている。
だけど、もしこれより大切な記憶がたくさん出来ちゃって、両親との記憶を捨てざるを得なくなったら? その時、僕はどんな気持ちで選別することになるんだろう。
そもそも、そんな究極の選択を強いられた瞬間が、無意識のうちに何回あったのだろう。
その度に残酷な選択をしていると考えたら、父や母にどんな顔をすればいいか、解らなくなる。
「そしたら今度は椅子に座ってみましょうか。準備しますので、一旦壁側で待ってもらってもいいですか?」
僕は頷いて、端の方へと後退りする。流石に普段と違う立ち方をすると肩が凝るし、倦怠感も滲み出てくる。それに今回は頭も痛い。お腹の辺りに蓄積する圧迫感を放出しようと、僕は小さく溜息をついた。
ふと、窓際の方に目を向ける。そこにいたのは、退屈そうに顔を顰める祖父と、それを柔和な笑顔で宥める祖母の姿。二人とも、長く身体を支えた重い腰を、待機用の椅子の上に乗せていた。
そういえば、二人はもう七十年以上も生きているんだっけ。
ふと気づいたその事実が、再び胸中を黒いもので満たし始める。数秒後にカメラマンの明朗な声を聞いても尚、その霧が晴れることはなかった。
友達の祖父母が亡くなったという話を耳にする中で、僕の祖父母は病気もなく元気に過ごしている。少し不謹慎だけど、それだけで自分は幸せ者なんだなと度々実感する。
住んでいる地域が近いということも相まって、小さい頃からしょっちゅう家に遊びに行っていた。二人とも僕に優しくしてくれたし、色んなところに連れて行ってくれた。いつも美味しくて温かいご飯と一緒に出迎えてくれる二人のことを、僕は心の底から愛していた。
でも、長く時間を一緒に過ごしていると、ふと我に返って不安になってしまう。あと何年、二人と一緒に過ごせるんだろう。そう思う度に、あの時もっと二人と会話できたんじゃないかって、意味のない後悔してしまう。
歳を重ねるごとに、その不安は大きくなっていく。病気はないけど、所々身体に不調をきたしているのは言われなくとも伝わっていた。タイムリミットは近づいてきている。その事実が、徐々にきつく胸を締め付けていた。
出来るのであれば、ずっと一緒にいたい。
もっと二人と同じ時間を共有したいし、色んなことを話していたい。
二人の記憶だって、いつまでも大切にしていたいのに。
それすらも、叶わないまま終わるのだろうか。
長いようで短い写真撮影も、いよいよ終盤に近づいてきていた。
一人での撮影を終えて、次に祖父母と三人で写真を撮り、最後に家族三人の姿を写真に収める。ドラマとかでよく登場する家族写真。それを連想した途端、妙に緊張してしまった。
配置、立ち姿、表情などをひとしきり指示してカメラマンはまたシャッターを切る。パシリ、またパシリと、閃光と一緒に音が染み渡った。
カメラはほぼ休みなく、その一瞬を切り取っていく。その度に僕の中の魂と、記憶の残り香が吸い取られていくようで、だんだん切なさと空虚感に苛まれていった。
一体、僕はこの二十年間、何回こうして「忘れ物」をしてきたのだろうか。
無意識のうちに頭から抜け落ちて、特に思い出すこともしないまま、その場に放置してしまう。気づいた時には、正体どころか原型すら喪失していて、結局意味のない後悔を続けてしまう。
そんな愚かな行いを、あと何回繰り返すことになるんだろう。あと何回、大切な思い出を失ってしまうんだろう。
頼むからせめて、家族や祖父母との思い出だけは死ぬ直前まで残していてくれ。そのためだったら、どんなに重要な記憶でも差し出すから。
胸の内の悲鳴に応えてくれる人は、当然だけど誰もいない。無慈悲で主張の激しいシャッターの音が、この瞬間を切り取って、声も映像もない無機質なフィルムに焼き写すだけだった。
「はい、皆さん。お疲れ様でしたぁ」
予定していた全ての撮影を終えて、カメラマンはぺこりとお辞儀した。
「この後なんですけど、実は今日の予約がこれで終わりでして。なので、しばらく此処で自由に写真撮って頂いて構わないですよぉ。椅子とかもどうぞ自由に使ってくださいな」
そう言い残して、男は何度も頭を下げながら、部屋を後にする。扉の閉まる音を皮切りに、僕以外の人達がみんな窓側に移動した。
「一回スマホで撮らせてよ。せっかくなんだし。そこらへんに立ってもらえない?」
立ってほしい場所を指で差しながら、母はスマホを構えた。それに乗じるように父や祖父、祖母も自分のスマホやガラケーを僕に向け始める。
全くもう、四人とも僕の気も知らずに。
だけど、まあ……それも仕方ないか。
嘆息した僕は、家族の期待に応えるように、スマホの群れに目を向ける。流石に恥ずかしかったので、表情は固いままだった。
こうして、僕の過去への執着は、現代風のシャッターによって引き戻されてしまった。だけどこの変な光景は、一生脳裏に焼き付いて離れないのだろう。
もっと真面目な記憶を残しておきたいのに。そう考えただけで、口角が釣り上がってしまった。
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