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まよいや
なんだったかなあ・・・
何か忘れ物をしているのは分かるのだ。
しかし、それが何かが分からない。
他の人に聞けば、不思議そうな顔をされるか
「ボケたんじゃない?」と遠慮なく言ってくる人もいる。
ボケたんだろうか?
そうかもしれない。
なにしろそういわれても不思議のない年だ。
しかし、そうじゃない。
そうじゃないんだ。
忘れ物をしていることは間違いがない。
そんなことを思いながら過ごしていたある日、
いつもの散歩コースを歩いていた。
山の中の細い道で車が来ない割に
ちゃんと舗装されているので歩きやすくて
気に入っている道筋だ。
秋になると落ち葉が降り積もって歩くたびに
足の下でふんわり受け止めてくれる感触もいい。
秋から冬になる山はくすんだ色だ。
いや、くすんでいるのは自分かもしれない。
パッとしない人生、ただただ生きてきただけのような気がする。
風がビュウと吹いて、足元の枯葉を巻き上げてくるくると回っている。
帽子を飛ばされないように
庇を手でぐっとさげて進んでいくと、
なんだか見慣れない建物に気が付いた。
いつの間に、こんなログハウスが建ったんだろう。
なにかの店だろうか。喫茶店だろうか、それともパン屋か
洋菓子の店かもしれない。そんなたたずまいの建物だった。
なにかケーキかクッキーの焼ける甘い香りがする。
ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家、
というのが頭に浮かんだ。
別にお菓子でできているのではないのは一目でわかるのだが
なんとなく、そういう雰囲気というか近寄って中を見てみたい
という抗いがたい誘惑を感じる建物だった。甘いものが好きというのでもないのに、なんだかそそられる。
見るだけならいいじゃないか。
お財布を持っているわけじゃないから
買い物はできない。散歩に出るだけのつもりだったから
持っているのはハンカチとティッシュくらいだ。ちょっと中を見て
帰ればいい。
そう思ってドアを開けるとカランカランとドアベルが鳴った。
お菓子屋さんやパン屋ではないのだろうか。
普通ならパンが棚に並んでいたり、ケーキやクッキーが
陳列されていると思うのだが、そういうものが見当たらない。
そのせいだろうか中は思ったより広く見える。
外から見たときは、せいぜい物置を少し大きくしたくらいにしか見えなかったのが、意外とちゃんとしたお家のような広さにみえる。
そして何とも言えないいい香りがする。
これはケーキの焼ける匂いじゃないだろうか。
それともパイかも。バターや卵や小麦粉がオーブンで焼ける
香ばしい匂い。それに甘い香りはジャムでも煮ているのだろうか。
ここはやっぱりケーキ屋さんなんだろうか?
それにしてはショーケースもないし・・・。
ガタンとドアが開いてオーブンから出してきたばかりと言わんばかりに
天板を鍋掴みでつかんだ姿の人が現れた。
「おや、失礼しました。お客さまでしたか。いらっしゃいませ。」
「え、あ。その・・・」
「ようこそ、まよい家に。」
「まよいや?」
「そうです。いいタイミングという意味で「間が良い家」です。ちょうどケーキが焼けましたし、お茶でもいかがですか?お客様は本当にいい時にいらっしゃった。」
にこにこと笑いかけられて、困ってしまった。なにしろお金を持ってないのだ。
「あの・・・。」
「ああ、お代は要りませんよ。一緒にお茶を飲んでいただけますね?」
「あ、まあ。はい。」
黒い真っすぐなつややかな髪の背の高い人の、まるでモジリアニの絵のようなアーモンド・アイに見つめられて、にっこりと微笑まれて断れる人がいるだろうか。
すらっとした長い脚をパンツスーツに包み、袖と襟元には綺麗なレースのフリルがみえる。それにエプロンという、ちょっと間違えばコスプレの好きな痛い人にみえるファッションが何とも様になっている。
天板をそっと近くの小さなテーブルに置いて、鍋掴みを外した手の指が長くて美しい。
「こちらにどうぞ。」
奥の方には飴色の磨きこまれた木目のテーブルがあって、焦げ茶色のどっしりしたいかにも座り心地の良さそうな木の椅子。
ドアを開けたときには、何もないがらんとしたところに見えたのに。薄暗くて見えなかっただけなんだろうか。
勧められるままに椅子に座ると、いつの間にかテーブルの上にはシフォンケーキと紅茶が用意されている。そばにあるティーポットは輝くような白い色だった。
「クリームはタップリというのが私の流儀でして。」
シフォンケーキに添えられたクリームが、ケーキよりも多いかもしれないような量で、びっくりしてると紅茶にはジャムをどうぞと、これもまたたっぷりとカップに入れてくれる。
「あ、その・・・あんまり甘いのはちょっと。」
「おやおや。そうでしたか。」
そういいながらも、お構いなしにジャムを入れるので仕方なくいただくことにした。
大きめのティーカップになみなみと入った紅茶をこぼさずに飲むのは難しそうだ。どうしたものかと思って、この店の主人と思われる人をちらっと見ると、お皿にこぼれた紅茶をすすっている。なるほど、そうすればいいのか。そういえば前に何かでマナーが分からないときは、その家の主人の真似をしたらいいというのを聞いた気がする。
ティーカップをお皿ごと持ち上げて、こぼれた紅茶をすする。甘いだろうと思ったのが意外とそれほどでもない。どちらかというと心地いい暖かさが体中にしみわたるようだった。普段は紅茶なんか飲まなくて、インスタントのコーヒーをブラックで飲んでいるのに。
「いかがですか?」
「おいしいです。おいしいというか、暖まります。」
「そうでしょう。そうでしょう。」
にっこりほほえんで、細めた目が嬉しそうだ。
「みなさん、甘やかしが足りませんからね。だから体も心も冷えてしまってる。あ、ケーキもどうぞ。クリームをたっぷりと付けて召し上がってください。」
生クリームは苦手だ。なんだか甘ったるくて食べると気分が悪くなるので出来たら避けたい。紅茶も飲んでみるまでは、こんな甘そうなのはとても飲めないと思っていたのだが。
毒を食らわば皿まで、という気分で一口だけフォークでケーキを切り取って少しだけ生クリームをつけようと思っていたのが、クリームが多すぎてどう頑張ってもケーキにクリームが同じくらいになってしまう。
ええい、ままよとばかりに口に入れて、紅茶で流し込もうと思ったのだが口に入れてみると、甘いというよりは滑らかな暖かさに包まれるといったらいいのだろうか、味とは別の感覚に包まれてしまった。目の前がぱあっと明るくなるような、うきうきするような。
「これは・・・」
「お気に召しましたか?今まで自分に厳しくしてきた人ほど、染みる味なんですよ。ずいぶん長いこと、好きなことや好きなものを我慢してきたのではないですか?」
そうかもしれない。好きなものをあきらめて、好きなこともしないで、ただ生きてきた。みんな大人はそうだと思ってたし、それで不満はなかった。
「もういいんじゃないですか?お好きなことをしても。」
そういいながらもクリームとケーキ、紅茶のお替りを進めてくる。
「好きなこと・・・」
一体、自分は何が好きだったんだろう。
そう思った瞬間にぶわっと光があふれだしてきた。ぱちぱちと音がするような光の中に、いろんなものが浮かんでは消えていく。春の花畑、夏の青空と入道雲、秋の夕焼けに染まる山々、真っ白の雪景色・・・
ああ、綺麗だな。
綺麗だな。
ふと気が付くと見慣れた自分の部屋に立っていて、なぜか涙が出ているようだった。
思い出した。
そうだ、大好きだったんだ。
一日中、白い紙にクレヨンで絵をかくのが。
色鉛筆や絵の具も好きだったけど、なんだかクレヨンが一番好きだった。あの太さと柔らかさ、指についた匂い。
でもダメだって言われたんだった。
そんなもの、役に立たない。
大人になってもクレヨンなんて恥ずかしい。
水彩画や油絵の具で描くのならいいのか。
でも結局は「お絵描き」なんかじゃ食べていけないとか、誰がそんな絵を買うんだとか、そんなことばかり言われた。
ちゃんと普通の仕事をしろ。
お金を稼げないんじゃだめでしょ。
他にも言われた。
いろいろと。
それで好きなものをあきらめた。
クレヨンもスケッチブックも全部捨てた。
そうだ。
一緒に心も捨ててしまったのかもしれない。
なにを見ても灰色にしか見えなかった。
ただの灰色の塊を相手に、ずっと生きてきたんだった。
窓を開けるとヒンヤリとした秋の風がカーテンを揺らして、そとの木立が金色に色づいた葉っぱを落とし始めていた。
ああ、綺麗だ。
なんて素敵な色なんだろう。
そのあとは無我夢中で絵を描いていた。
その数年後、私はビエンナーレという芸術家が誰もが夢見る舞台に作品を出品して一躍有名になったのだった。何人もの画商が私の絵を買いに来ては、見たこともない額のお金で買い取っていくようになった。
彗星のように現れた異色の覆面画家、というのが私につけられた。たしかにこんな年でいきなり絵をかきだして、その絵が高い評価を受ける人間は滅多にいないだろう。
最初に素性を隠して出品したのは単に、こんな歳の人間が絵を出しても物笑いの種になるだろうと思ったからだったが、逆にそれが良かった。もし
顔や名前をさらしていたら、どうなっていたことか。
今まで寄り付きもしなかった「身内と称するもの」たちが、わんさと湧いて出てきたに違いない。そんなことはまっぴらごめんだ。無駄な煩わしいことが増えるだけだ。
わたしはただ絵が描きたいだけなんだ。
画商は私の希望を聞いて、覆面のままでデビューさせてくれた。アトリエや住居も用意してくれて身の回りのことをする使用人までいるので、その気になったら一日中ずっと絵をかいて暮らせる。
夢じゃないだろうか。
何度そう思ったことか。
夢なら覚めないでほしいものだ。
このままずっと、こうやって絵が描けたら何も要らない。
ある日、ふと夕暮れの空を見ると懐かしい記憶がよみがえってきた。
「そうだ、こんな色の空だったな・・・」
独り言を言ったつもりだった。
「先生、なにか思い出でも?」
画商がいたのを忘れていた。
「ああ、いや。なんだったかな、絵をかこうと思った時、こんな空だったんだ。」
「なるほど。この空の色が、先生を画家にしたというわけですね。」
「うん、まあそんなところだな。」
「また描いてみてはいかがでしょう?タイトルはねそうですね。思い出の空、というのはいかがですか。」
「いや、もうあの時のような、なんていうか衝撃というか湧き出る思いは、なんていったらいいのかな、うまく言えないんだが・・・。」
「それこそ絵で表現なさればよろしいではないですか。」
「うん、・・・そうだな。描いてみるか。」
しかし描けたのは、あの空ではなかった。
なぜか長い真っすぐな艶やかな髪のアーモンドアイの顔だった。
画商が悲しそうな顔をしてこちらを見ているのがわかった。
「ああ、それを描いてしまったのですね。」
ぐにゃりと世界がゆがんで、あの美しい色が濁っていく。
やっぱり夢だったのだろうか。
気が付けば、寒い木枯らしの山の中に一人で立っていた。
世界はやはり、くすんでいた。
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