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第6話 榛名主任
あの日から、約一ヶ月が過ぎた。
榛名は霧咲が置いて行ったメモを財布に入れて、常に持ち歩いていた。既にその番号も名前も登録済みだったが。
しかし、連絡はまだ一度もしていなかった
毎晩、名前と番号とにらめっこしては溜め息をつき、画面を消す。そんな傍から見れば乙女チックな行動を、榛名はほぼ毎晩繰り返していた。
どうせ教えてくれるなら番号じゃなくてメアドだったらよかったのに。と思ったが、メールであっても送っていたかどうか定かではない。が、電話よりもハードルは下がる気がする。
そもそも榛名は、自分がどうしたいのかよく分からないのだった。
また霧咲に会いたいのか、会いたくないのか。会ってそれからどうしたいのか。
……また、抱かれたいのか。
そんなこと、言えるわけがない。自分が挿れるよりも、挿れられる方が気に入ってしまいました、なんて。
でもあの夜のことを思い出すと、胸がきゅうっと苦しくなって食欲が無くなる。
そして霧咲にされたことを思い出しながら、ほぼ毎晩自慰に励んだ。
この一か月で少し痩せたかもしれない、正確に測ったわけではないけれど。
患者の体重は毎日毎日何十人、何十回と測るのに、自分の体重には無頓着な榛名だった。
「おはようございまぁす、榛名主任。早いですね~」
後輩看護師、有坂が榛名に元気よく挨拶をしてきた。有坂はここ、T病院の腎透析室では一番若手の看護師だ。
「おはよう有坂さん。今日俺リーダーなのに、全然事前に情報取ってなかったからさぁ……」
榛名はパソコンに向かって患者の情報収集をしていた。主に、今日の透析前に採血やレントゲンを撮る患者の最終チェックだ。
「ああ~っ、今日も忙しいのかなぁ~っ!」
「うん、忙しいね。頑張ろう」
「はあーいっ、ま、主任がいるから大丈夫ですよねっ」
「なにそれ、ちゃんと頑張ってよ? 若者」
「主任もあんまり歳変わらないじゃないですかーっ」
いや、4歳も違うだろ。
そう突っ込みたかったが、自分も若者の部類に入れられているなら素直に喜ぶか……と否定しなかった。
否定せずとも、榛名は透析室では若い部類に入るのだが。
榛名が看護師主任を務めているこの透析室は、病棟に比べると若干看護師の平均年齢が高い。病院によって違いはあるが、ここT病院では基本的に新卒の看護師は透析室に採用しないからだ。
その理由は、透析室の特殊な業務内容にある。
透析室の業務は、病棟の業務とは内容も流れも基本的に違う。新卒で透析室に配属されると、透析業務のことしか分からない──いわゆる潰しのきかない看護師になる可能性が高いため、病院側は新卒をわざわざ透析室に配属させたりはしないのだ。
本人が透析専属の看護師になりたいと思っているならいいのかもしれないが、基本的な看護業務──酸素投与、吸引、採血、心電図、その他オムツ交換や移乗など──およそ病棟で行う基本的な業務を事前に習得していないと、ただでさえ覚えることが多い透析室では苦労するのが目に見えている。
透析中の患者の血圧管理やそれに伴う経過観察、更に透析中の急変対応も決して少なくはないからだ。
もっとも透析室は朝までの夜勤業務がないため、(24時間体制の病院も存在する)今のうちにがっつり稼いでおきたい、と思っている若い看護師にはもともとあまり人気のない、いわゆる日陰の部署なのだが。
そんなわけで、透析室で働く看護師はまだ子供が小さい主婦や、定年後のパート看護師が多い。他にも病棟勤務が嫌になった──原因は大体人間関係である──移動希望者や、透析看護に魅力を感じて希望してきた者など、理由は皆様々だ。
透析は外来なので、基本的には患者がいる時しか仕事がない。(受け持ち患者の記録作成などの、細々した業務は存在するが)
入院患者にも透析患者はいるが、彼らも透析を終えたら早々に病棟に帰っていく。
記録作成も透析中に終わるので、延々と記録残業に追われることもない。
つまり、定時で帰るのが当たり前だ。
そして、それが透析室で働く最大の魅力だと榛名は思っている。
榛名は、毎日目が回るほど忙しい病棟勤務が苦手だった。
生活スタイルが私生活より仕事が優先的になるのも嫌だった。
特に家で趣味の何かをするわけでもないのだが、あまり人生を仕事に縛られたくないタチなのだ。
そんな榛名の思いとは裏腹に、主任という役職なのだが……。
何故まだ20代である榛名が役職に付いているのかというと、それもまた理由があった。
現在、透析室にいる看護師のうち、榛名と有坂、他数名は20代から30代だが、それ以外の看護師は皆40代から60代だ。
当然、年齢的にも経験値的にも榛名より主任に向いている人材は何人も存在する。
しかし、彼女らはまだ子供が小さかったり、PTA活動が忙しい、持病があり病院に通ってるなどと様々な理由をつけて、役職に付くのを軒並み断っていた。
普通はそれでも他に人がいなければ年功序列で誰か適任者が引き受けるしかない、が。
しかし、ここT病院の透析室には榛名がいた。榛名は透析経験は5年以上あり、何より男性だった。
看護師は年々男性も増えてきてはいるものの、まだ圧倒的に女性が多い。しかし女性は結婚、妊娠、出産がきっかけで辞めてしまう者が多いのだ。
そうでなくとも、看護師の離職・転職率は他の職業に比べると格段に高い。
辞めても看護師免許があればがすぐに就職できる、という利便性の副作用だ。
そこで、まだ若いが透析看護の経験もあり、結婚しても産休などの休みを必要とすることもない──希望すれば別だが──榛名に白羽の矢が立った。
前の主任が退職する前に、是非次の主任になって! と師長に言われた時は榛名もずいぶん抵抗したのだが。
しかし『貴方なら絶対に大丈夫』『もうすぐ30だし早すぎることはない』『どうせそのうち役職をお願いするつもりだった、それなら早い方がいい』などとしつこく説得され、断りきれずに引き受けたのだった。
主任と言えば聞こえはいい。
が、今までと給料はさほど変わらないのに責任ばかり重くなって、面倒な会議などにもしょっちゅう駆り出され、その上師長と部下の看護師の間で板挟みにもなる、非常に厄介な役職だ。
管理職である看護師長とも立場は違うし、師長の近藤は面倒な業務は榛名に振ってくることが多い。
若輩者な手前文句も言えず、それでも仕事は淡々とこなすので榛名はいいようにこき使われていた。
そして師長がいないとき、透析室で起きた不祥事──いわゆるインシデントやアクシデント──の責任を負うのは主任の榛名だ。(最終的には師長だが)
だからどんな状況でも対応できるようにするべく、榛名は通常の主任業務に加え、師長に頼まれたこともすべて真面目にこなしていた。
それに、病院はやはりまだまだ女性が多い職場だ。ここで女性陣に嫌われるような発言や振る舞いをしたらどのような目にあうか、榛名は学生時代に身をもって知っていた。
だから基本的に、師長を含む女性陣には反抗しないのである。
「主任~! 横井さんの穿刺(せんし)変わってくださぁい!」
有坂が助けを求めてきた。榛名は軽くため息をついて有坂に向き合う。
「有坂さん。どうして自分にはまだ難しい人にわざわざ穿刺にいくの?」
「だって、こういうのって経験じゃないですか~……」
「向上心があるのはいいことだけど。自分の技術も見極めないと何回も刺される患者さんが可哀想だろ? 急いでうまくなろうとしなくてもいいんだから……それにまだ新人なんだし、刺せなくても誰も責めないよ」
「……ハイ」
しょぼんとしているその姿が少し可哀想になるが、もっと可哀想なのは患者だ。
難しい患者というのは性格が気難しい患者を指しているのではなく(その場合もあるが)複雑な血管を持つ患者のことである。
透析は16G(ゲージ)の針を二本、シャントと呼ばれる血管に刺さないと始まらない。
透析で使用する針は点滴や採血用の針とは全く違い、輸血や献血で使用する針よりも大きくて、見た目でわかりやすく言えば、竹串サイズだ。
当然、最初のうち──透析導入したばかりの頃──は激しい痛みを伴う。
血管が発達すれば、あるいは慣れれば痛みは少なくなるといわれているが、めちゃくちゃ太い針で刺されるのだから、痛いものは痛い。
まず穿刺ができなければ透析は行えないため、シャント穿刺は透析を行う上でもっとも重要な医療行為なのである。(カテーテルを挿れて行う場合もあるが、大半は内シャントを使用する)
新人の透析看護師が苦労するのも、まずは穿刺なのだ。
「じゃあ横井さんの穿刺は俺がいくから、他の患者のところに行ってくれる?」
「はい、竹中さんに行ってきます……」
有坂が刺せなかった横井氏の血管は方向が複雑で、穿刺ができる人間は透析室でも数人に限られていた。
榛名は穿刺は得意な方だ。絶対に成功するわけではないが、8割方は成功する。
しかしベテランだろうと、透析室の看護師が全員穿刺が得意なわけではない。しかも血管は看護師によって相性もある。
だから穿刺が苦手な看護師は、難しい血管の患者はそれとなく避け、得意な者が刺しにいくという暗黙の了解がある。
(急いで穿刺しないと、リーダー業務が終わらないぞ……)
思わずこぼれそうになった溜息を飲み込んで、榛名は聴診器と駆血帯を手に持ち、横井氏の待つベッドへと向かった。
title:『榛名主任』
イラスト/りぃさん
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