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男の家は自宅の近所だったけれど、それでも着替えに寄る暇はなかった。
駅のトイレで顔だけ洗い、コンビニで買ったスタイリング剤で髪を整える。出社するなりコピー機の前に立っていた後輩が、あれっと目を丸くする。
「珍しいっすね、ワタさん。朝帰りとか」
「何言ってんだよ」
エナジードリンクを机に置きながら、陽はため息をこらえた。
「え、だって昨日と同じスーツですし」
かつ、とプルタブを開けるのに失敗する。資料の表紙の誤字には気づかないくせに、そういうとこは気づくんだな、とちょっと意地悪く感心してしまった。
「ちがうよ。昨日帰り停電に巻き込まれて、ネカフェで寝たから」
「ああ、ニュースになってましたね」
「須永は大丈夫だった?」
「はい。迎えきてもらったんで」
それは何より。
「送ってもらった修正版だけど」
電車のなかで確認した資料について口火を切ると、須永は途端に肩をこわばらせた。
「よくなってたと思うよ。一部レイアウトずれてたのと、色ちょっといじりたいけど、伝えたいことはハッキリ伝わってきたし」
「ほんとですか」
こういうとき、ぱっと顔を輝かせるのではなく、ほっと安心するのが須永という人間だった。だから、毎月のように経費精算の方法をきかれても、念を押した書類を会社に忘れても、陽はこの新入社員を嫌いになれない。
仕事に対するやる気や情熱があるとは決していえないけれど、無難な社会人を演じるつもりはあるようだし、なにより三年ぶりに入ってくれた期待の中途採用、即戦力だ。
気合いを入れてくる、とトイレに消えた須永をしりめに、資料のデータを呼び出し、気になった部分を次々に直していく。変換ミス、色の統一、図は大きさに意味を持たせて見せたいところの強調。あくまで発表者は須永だから、話しているときに戸惑わない程度の修正で。
一度気になり始めるとキリがなかったけれど、どうにかこれくらいかと目途が立って時計をみると、意外と時間が過ぎていなくて驚いた。
カラーを選択して、五十部印刷。かなりお年を召したコピー機を撫でながら起こして、スタートを押す。心穏やかに送信したせいか、めずらしく一度もエラーを出さずに刷り上がった資料をまとめながら、なんか、いろいろうまくいくな、と思っていた。
あれか。よく寝た効果ってやつだろうか。
いつも頭の奥底にへばりついていたダルさが軽くなって、心なしか視界も広くなったように思える。
睡眠って大事なんだな。
思えばずいぶんいいベッドだった。広くて、リネンは清潔で、柔らかすぎず硬すぎず、それでいてしっとり身体に添うマットレス。
あの人、一晩中床の上で寝てたんだろうか。
真っ黒な隈をつくったよどんだ顔を思い出す。叩き起こしてくれてよかったのに、申し訳なかったな。不可抗力とはいえ、謝罪しないと。お詫びの品を考えながら、陽は資料をカバンにつっこんだ。
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