1

6/6
前へ
/68ページ
次へ
 芳香剤でも置いているのか、ふわりと花のような匂いが香った。  あらためてみた男はでかかった。百七十後半の陽より、頭一つ大きい。白いパーカーを羽織った姿は、やっぱりどこかシロクマっぽい。 「あ、どうも」 「これ」  挨拶もそこそこに、こぶしをつき出されてとまどう。  うながされるまま両手を伸ばせば、開封したばかりののど飴が出てきた。コンビニで買ったスティックタイプの、十粒入りのやつ。 「落ちてたんで」 「あ、わざわざどうも」  百円ちょっとの、しかも食べかけの菓子だ。食べるのははばかられるとしても、捨ててしまって構わなかったのに。  ちらっと見た顔は、拗ねたように眉間にシワが寄っている。いかつくはないけど、細身で大きい洋犬みたいな、人を寄せ付けないまなざし。 「あのこれ、お詫びの水ようかんです。お嫌いでなければ」  交換するように差し出せば、男は案外素直に受け取った。紙袋の中をのぞき込んで、喜ぶでも嫌そうにするでもなく、小さくあごを引く。 「話、それだけ?」 「え? はあ、まあ」 「そう。じゃあ帰ってください」  まるで「箸取ってください」とでも言うかのように、ごくあっさりと男は言った。 「今から走りに行くんで」 「あ、ランニングですか」 「ええ。走って風呂入ってご飯食べてストレッチしてアロマ焚いて……もう出ないと、十時にベッド入れない」  いうだけ言って、男はあっさりドアを閉めた。閉まったドアの前に突っ立ってるのも不審なので、陽はいま来たばかりの道を戻り始める。  視線を上げれば、落ち切った太陽がまだうっすら空を照らし、雲の輪郭が朱鷺色に染まっていた。  いや、十時て。  思い出して噴き出した。  小学生か。ていうか、ストレッチやアロマって、そんな締切に追われるようにやるものなのか?  氷のうえでだらんと寝っ転がっていたシロクマが、あわてて起き出し準備体操を始める。もこもこした腕をぐんと伸ばして動き回る姿を妄想をしながら、陽は駅前のコンビニに入った。  よく冷えた水と、ビール――に手をかけ、やめる。  ただの気まぐれだ。けどきょうはなんだか、アルコールがなくても眠れる気がした。
/68ページ

最初のコメントを投稿しよう!

125人が本棚に入れています
本棚に追加