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ちらっと含みのある視線を後輩に向けられてひやひやする。
当の本人は気づかれていないと思っているのか、こそこそ背中を丸めてはまたスマホに夢中だ。そろそろ新しいイベントが始まる時期だっけ。
田所の沈黙に込められたメッセージに気づいていないのは、いいのか、わるいのか。わざと咳ばらいをすると、須永は電気を流されたようにぴっと背筋を伸ばした。
三か月前、凍てつく風から逃げるようにやってきた須永は、ぶかぶかのスーツを着ていて、まるで高校生のようにみえた。二年間、アプリの開発会社で揉まれてきていると聞いたときは驚いたものだ。
給料がいいわけでもない、全くの異業種に転職した理由を、須永は「未練にしばられたくなかったから」と語った。
「もともとは、ゲームクリエイターになりたかったんです。専門学校も行って、ポートフォリオとか作って……けど、ひとつも内定もらえなくて。泣く泣く、アプリの開発のSEになりました。けど、やっぱりどこかで、ゲームに携われない後ろめたさみたいなのがずっとあって。だからいっそ、まったく別の仕事しようって思ったんです」
「でも、こんな激務の会社に来ることなかったんじゃない?」
「前職もブラックでしたし、それに、働いている方が気がまぎれますから」
転職をしたことがない陽には、会社を移る心境も苦労もわからない。けれど、働いている方が気がまぎれるっていうのは、よく身に覚えのある感覚だった。だから、勤務中にこそこそアプリゲームを起動させる後輩でも、陽は見捨てることができない。
「ところで、例の件はどうすか?」
結局、三十分も経たないうちに舟をこぎ始めた後輩をむりやり帰し、共有フォルダに上げられたデータをぽちぽち修正しながら、ほとんど電気の消えた薄暗いフロアで訊ねる。
「例の件って?」
「採用ですよ、採用。まじで須永、辞めちゃいますよ?」
「ああ、それなあ」
その声だけでもう、全然進めてないのだとわかった。予想通りだけれど、放置はできない。
「いや、がんばってんだよ。けどさあ、うちみたいな小さい会社には、なかなかこれって人が来てくんないから」
「にしても、業務多すぎですよ。あいつまだ、入社三か月目ですよ? 残業時間、知ってますよね」
「わかってるけどさあ。そこをどうにかすんのが、現場の工夫ってやつじゃん?」
「仕事のやり方でどうこうなるようなら、半年に三人も辞めないんすよ」
だから陽はあえて耳に痛い現実を突きつける。入社七年目の陽が、社会人経験二年目の須永のメンターなのも、教え方が上手いとかではなく、単純に人がいないというだけだ。
「給料上がんないなら、せめて労働環境よくなきゃ。どっちも最悪って最悪ですよ」
「二回も言わなくたっていいでしょ」
私だってわかってんだよ、と上司は頭を抱える。
「これ以上給料出したら会社がつぶれるし、けど、仕事を減らして残業減らしても売り上げが減ってじり貧だし、画期的な業務改善をする予算なんてないし……」
泣き言を聞きながら、資料の「仮定」を「家庭」に直し、均一だったフォントにメリハリをつけ、図形の枠線と塗りつぶしの色を合わせる。陽は慰めなかった。弱音をいえてるうちは、まだ大丈夫だろう。
「きいてる?」
「きいてないっす」
ひどい、と嘆いた田所は、そのまま立ち上がるとフロアの戸締りを始めた。
ぎりぎりまで粘っていた陽も、シュレッダーのゴミと一緒に吐き出される。一杯つき合え、と言わないのが、彼女なりの気遣いなのはわかっていた。
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