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高谷章雄の身勝手さに辟易としていた頃、駅で摺の濡れ衣を着せられかけた。
腰を曲げて見せれば何も言わずとも誰かが席を譲る、とでも言いたげな老人が、懐から消えた財布の在処を目の前に座っていた奏恵に求めたのだ。
人目も憚らず騒ぐのならまだマシだった。
だが老人は、奏恵が何度勘違いだと言っても聞かず、しまいには諭すように説得を始めたせいで、周囲の人間の目まで、彼女を疑い始めていた。
居た堪れず、次の駅で降りてしまおうかと思った矢先、老人のバッグの中を探すよう提案し、彼女に助け舟を出したのが、側に立っていた弓塚秀という若者だった。
フリーターを自称する彼との付き合いは、高谷より長続きした。
奏恵を自身の装飾品としてではなく、パートナーとして切に求めてくれているのが伝わり、奏恵もまた、彼との逢瀬を楽しんだ。
彼のプレゼントしてくれた折り畳み傘が、安物だが華やかであったことも気に入った。
二人の関係には、三回の変化があった。
奏恵と高谷の縁が切れ、改めて恋仲になった時。
お互いに嫌気がさして、友人未満へと戻った時。
弓塚と奏恵の性格は、正反対だと言えた。
店で料理の出が遅い時、奏恵は店員を呼ぶが、弓塚は本を読み時間を潰す。
電車で席が空いていれば、そこが優先席だろうが奏恵は座る。が、弓塚はガラ空きであってもどこにも座らない。
弓塚の謙虚さ、遠慮深さは、誰に対しても発揮され、それが奏恵だった時は悪い気はしないが、二人でいる時に第三者へ向けられると、実に居心地の悪い思いをした。奏恵自身が、他人より自分を優先する性格であるが故に、尚更だった。
なにより、その誠実さを奏恵にも求めているように見えたのが、我慢ならなかった。結局弓塚の方がこちらに愛想を尽かしてしまった。
『君はもう少し、他人の気持ちを慮った方がいい。そんな態度では、いずれ皆に見放されてしまうよ』
耳障りな言葉。それが奏恵に向けられた、最後の言葉だった。
翌々日。彼は自宅で亡くなっていた。自殺だったが、彼と最後に会ったのが奏恵だった為、警察は奏恵と弓塚の関係を探った。二人の関係は、被疑者と被害者の形で幕を下ろすこととなった。
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