0人が本棚に入れています
本棚に追加
「……だから、時間がなかったんです。それで今日ようやく暇が出来たから……」
ヒールの踵をコツコツと鳴らす音がホームに響く。耳障りだ。自分でやっていることだからといって、それを気に入っているなんて思わないで欲しい。
苛立っているのは電車に乗り遅れたからだろうか。それとも電話の相手がグダグダと過ぎたことをしつこく言ってくるからか。気に入らない。
「私だって忙しいんです! それでもどうにか時間を作ることができたから、こうして引き取りに向かうんです。落とした日のうちに『必ず取りに行く』とも伝えたはずです。
……貴方が聞いたか聞いてないかは関係ないですよね? まさか処分したわけじゃないですか? あれは大事なものなんです! ……だから、今から行くと言っているでしょう!」
電話の相手の言葉が途切れたので、「三十分ほどで着きます」とだけ伝え、通話を切る。
アプリでメッセージを確認するが、着信はない。返事をよこすよう催促のメッセージを送る。
突然の雨だった。
駅へ向かい始めた頃は綺麗だった逢魔時の空は、ものの数分で暗雲に包まれ、奏恵が駅に着くのとほぼ同時に、土砂降りの雨を降らせた。
最初は悪態を吐きながら構内でビニール傘を買おうとしたが、会計直前になってふと、一ヶ月前にここの電車に乗った時、傘を忘れていたことを思い出した。
思い出すとなんだか恋しく思え、急ぎの用事がなかったのもあって、当時連絡してきた忘れ物センターに改めて電話をした。
そうだ。自分のものを引き取りに行くだけだ。なのに何故、あそこまで文句を言われなければならないのだ。先月には配属すらされていなかったような新人に。
次の電車の座席に座り、息をついても苛立ちは収まらない。奏恵を取り巻く状況は、どれもが彼女の神経を逆撫でしていた。
スマホが震える。返事が来たかと期待して開いて見れば、高谷からメールが届いていた。望んだ相手ではなかった。
高谷章雄。思い返せば、苛立ちの起点はこの男にあった。傘を忘れた先月から、さらに一ヶ月余り遡った頃の事……。
最初のコメントを投稿しよう!