さいさんさいし。

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「あ、あの!」  情けなくも足は震えていた。  私に声をかけられたから、当然のように、目の前の男は振り返る。  やけにガラの悪い男だった。 「あ?」  ライオンのたてがみのように立った金髪と、赤いアロハシャツ。  振り向いた双眸は朱色のサングラス越しにもわかるほど鋭い。  いわば私は、蛇に睨まれた蛙。ライオンに見つけられた兎だった。 「こ、こここ、これ……」  私は必死だった。  先ほど拾ったばかりの銀色の塊、ジッポライターを震える手で必死に差し出す。 「……? おお、これ、俺のライター!」 「さ、さっき、わ、忘れたみたいだった、ので!」  地下鉄の車内から人々の目をひいていた男のことは、私も目にとめていた。  できればお近づきになりたくないと思ったからだ。  なるべく距離をとるように、彼の視界に入らないぎりぎりを狙って動く。  ──しかしこの監視のような行動があだになった。  男が一人で二人分使うように腰かけていた地下鉄の長椅子に、ライターを忘れていったのだ。 (本当は、本当は声なんてかけたくなかった、けど……)  見てしまったものを、見なかったことには出来ない。  そう思い必死の覚悟でライターを手に取って、男を追いかけ、冒頭に至る。 「いやあ、サンキューなあ、お嬢さん!」  男は何のためらいもなく、私の頭をぐしゃぐしゃに撫でまわした。  震えた足腰にはその衝撃は全く耐え切れず、私はふらふらと数歩退く。 「こいつは俺の大事なモンなんだ。失くしたら困るとこだった」 「そ、そう、ですか」  男のくしゃっとした笑顔は、なんだか意外に思えた。  こういう風貌の男でも、こんなふうに子供っぽく笑えるものなんだとぼんやり思った。 「礼といっちゃなんだが、お嬢さんの望みを一個、叶えてやろう」 「……え?」 「何でも言ってくれや。こう見えても俺、『悪魔』なんだわ」  ニタリと歪ませた口角から、ぞっとするほど立派な八重歯がのぞく。  つー、と頬を落ちた汗を目で追うと、男と自分の影が目に映った。  男の影には、蝙蝠羽根と、悪魔の矢じりのような尻尾がついていた。  私は、生涯において絶対に関わりたくないタイプの装いをした男と、流行りの喫茶店で向かい合って座っていた。  男が頼んだのは顔に似合わないカタカナが呪文のように長く続く甘い飲み物で、私が頼んだのはブラックコーヒーだった。  せっかくだから何か食えよ、といった男の提案に甘えて、私の前にはチョコレートタルトが置かれている。 「で、何かないのか? 望み」 「急にそういわれましても……」  男はちゅーっと口をすぼめながらストローを吸い上げる。 「お嬢さん、女子高生ってやつだろ。受験に受かりたいとか、勉強が得意になりたいとか、彼氏が欲しいとか、なんかないのか?」 「うーん……」 「名は明かしてやれねえが、俺、いちおー少しは名のある悪魔なんだぜ。なんでも叶えてやれると思うんだけどなあ」  ずいぶんと気前のいい男だと思った。  もしかしたら騙されているのでは、とも思ったが、男の影にはやっぱり羽根と尻尾がある。 「ま、食べて考えてくれよ」 「あっ、はい」  促されて、慌ててフォークを手に取った。  真っ黒なそれに銀色のフォークを切るように落として一口、舌にのせる。  ほろ苦いカカオの香りと、甘ったるいチョコレートの独特の味、それから甘さ控えめのクッキー部分の味が口の中で混ざり合う。  それらをひとしきり堪能したあと、ほわほわと白い煙をあげる珈琲で一気に流し込んだ。 「美味しい……」  やっぱりケーキにはブラックコーヒーがよく合うと思う。  とくにチョコレートタルトは格別だ。 「うまそうに食うねえ、お嬢さん」  いつのまにか、あの柄の悪い男は頬杖をついて私を見つめていた。  私は構うことなく、二口目へフォークを滑らせる。  今はこの美味しいタルトと珈琲を堪能したかった。  男は結局、私がタルトを食べ終わるまで、じい、と私を見つめていた。  食べ終わったのを見計らって男が言ったのは、こんな言葉だった。 「もう一個喰うかい?」 「い、いえ、もう、大丈夫です」  慌てて断った。  これ以上食べたら、いや食べれるけど、さすがに、カロリーとか。 (太ったら、余計にあそこで、生きづらいし)  口に残ったほろ苦い香りに、影が差す。  それでようやくのこと思い出した。そうだ。あるじゃないか、願い事。 「……あの。本当にどんなことでも、いいんです、よね?」 「かまわないぜ」 「でしたら……、私の、彼氏役、を演じてほしいんです」 「……あ?」  男は、目を丸くして、ついていた頬杖から頬を滑らせて落としていた。  慌てて体勢を直す男の目を、私も懸命に見つめ返す。  太陽はゆっくりと傾きだしていて、橙色が私たちを侵食していた。 「いや、全っ然、構わないけどよ……、詳しい話を聞いても?」 「えっと、いわゆる、合コン……っていうんですかね。そういうものに参加してほしい、ってクラスの女子から頼まれまして」 「ほう」 「私はそういうの興味がないのでお断りしたんですが、その、『生意気だ』『彼氏を作ってから断れ』『せっかく恵麻が誘ったんだから大人しく参加しろ』と、ひどく叱られちゃって」  クラス内での私は、とても大人しい女子生徒だ……と思う。  目立つことはしてこなかったし、誰とも特別親しい関係にはならなかった。  だから目を付けられる、とは思っていなかったのだが、ある日転入してきた女子生徒一人によってそれは変わった。  華宮恵麻(はなみや えま)。  彼女は名前負けしないほど、容姿が可愛らしい女の子だ。  常にクラスの中心にいて、誰からも愛され保護される。 (私のことは、ほっといてくれればよかったのに)  クラスの全員を、華宮は『気にかけた』。  彼女にとっては、本当に誰も彼も分け隔てはなかったのだ。 「それで俺にお嬢さんの彼氏役をやってほしい、と」 「行かなくて済む理由も見当たらないし、彼氏を作りたいわけでもないし」  すっかりぬるくなった珈琲を口に含む。  その苦みが心地よい。 「私はただ、静かに過ごしたいだけ、なので」  珈琲の水面で、ふと自分と目が合った。  決して美人じゃないし、整っているわけでもない顔立ち。  別にコンプレックスでもないけれど、特別誇れるようなものでもない。  今の私は、美味しいケーキと珈琲で満足できる、そういう女なのだ。 「なので、来週の日曜日、私と一緒に断りに行ってほしいんです」 「フーン。つまり、その一日、俺はお嬢さんの彼氏になればいいってことだな?」 「まあ、そういう感じになります」 「そんなモンでいいなら、喜んで」  はたから見ればガラの悪い、チンピラのような男と、女子高生だと主張するような制服に身を包んだ私は、男が持っていた紙に契約内容をしたためて、二人でサインした。  これが契約書になるのだという。  男はおそらく自分の名前を書いたのだろうが、まるで読み解けない。そもそも何語なのかもわからない。  まあ、どうでもいい話だ。 「では」  伝票を手に立ち上がろうとした私の手を、男は掴んでいた。 「名前」 「はい?」 「この国に潜んであんまり経ってないから、漢字ってやつは読みにくいんだ。名前、なんて読むんだ?」 「……夜見川凛子(やみかわ りんこ)です。どう呼んでいただいても、大丈夫です」 「ヘェ。凛子ちゃん」  男にそう呼ばれると、なんだかむず痒い感じがした。  いや、下の名前で呼ばれることが、久しぶりだったからかもしれない。 「俺のことはそうだなァ……、お嬢ちゃんが決めてくれ」 「えっ」 「言った通り、俺の名は教えられねえ。だがこの国になじめるような名前も思いつかねえ」 「はあ……」  仕方なく、もう一度席に座りなおす。  そうは言われても、すぐになんて思いつくわけがない。 (金髪……、ガラの悪くて……大きくて……)  肩にかけていた鞄から、ノートを取り出す。  胸ポケットに入れていたシャープペンを手に取ると、思い浮かんだ漢字をどんどんと書いていった。 「この国は平和でいいよな。俺らもこうして、のんびり暮らせるし」 「……他にも仲間……というか、その、悪魔、ですか? そういう方々がいるんですか?」 「いるよ。みんなこうして人間に擬態してる。気づいてないってことは、うまく溶け込めてるってこった」  果たして地下鉄内でのあれは、うまく溶け込めている、というのだろうか。 (いや、ある意味で忘れ物もしてるし、ああいうニンゲンもいるし、それっぽいといえば、たしかに)  思い返すと、なんだか笑ってしまう。  あれはつまるところ、忘れ物以外は擬態の一環だったのだから。 「あ、この漢字いいな。かっけー」  ふと、私の書きだした漢字を、彼は指さした。  なるほど。『獅子』だ。 「じゃあ、獅子堂とか、どうですか」 「シシドー……、へえ、そういう漢字で、『獅子堂』! いいねえ!」 「下の名前は要りますか?」 「ンー、この際だから貰っとくか」  苗字が獅子堂なんだから、なんかこう、かっこいい漢字がいいだろうか。  強そう、というか、男らしい、みたいな。 「じゃあ、こんな漢字で……、『京五郎』さん、というのは、どうでしょう」 「キョーゴロウ! いいんじゃねえか!」  けたけたと笑う男は、なんだか満足げだった。  いや、そもそもだが、普段は何と名乗っているのだろう。  それとも、名乗らなくても案外暮らしていけるものなのだろうか。 「じゃあ、私はこれで」  今度こそ立ち上がろうとした私の手から、男はパッと伝票を取り上げた。 「名前をくれた礼だ、奢ってやるよ」 「そんな……私は、とくに、何も」 「大人しく奢られておけって。な?」 「はあ……」  そんな小さなことにもお礼だなんて、律儀な男だ。  私はそう思いつつ、ごちそうさまでした、と男に告げて席を後にした。  店員の視線が突き刺さる。そいつ連れて帰らないの、みたいな。 「あ」  男は大きめの声でそう呟くと、席を立ちあがった。  それから私に「凛子ちゃーん」と呼びかける。 「な、なんですか」  突然のことと、注目を集めてしまう羞恥に若干飛び上がりながら振り向いた私に、男は言った。 「俺の名前呼ぶ練習しておけよー」 「……? 必要ですか、そんなもの」 「ちゃんと親しみこめて呼べないと、バレちゃうぜ」  それだけ言うと、男はまたストンと座席に座り込む。  店員のがっかりした空気を感じながら、私は軽く会釈して、この喫茶店を後にした。  もう二度と来れないと思った。……残念、チョコレートタルトは美味しかったのに。  スマホに表示された『日曜日』の文字をみてうんざりするのは初めてだった。  日曜日は、いつもケーキを焼く日だ。  美味しい珈琲豆は買ってきてあるし、サイフォンだって用意してある。  豆を挽くためのミルだって用意してあるのに、あの華宮恵麻のたった一言で、私の休日は変わってしまった。  ぼんやりしたままの身体で身支度を整える。  両親はやっぱりいなかった。  二人とも共働きで忙しい。朝の早くか晩にしかいない。あるいは、会社で寝泊まりしている。 「いってきます」  誰に言うでもない言葉を口癖のように吐き捨てる。  ばたんと閉じたドアから返事をもらって、私は一方的に告げられた待ち合わせの場所へと足を向けた。  相変わらずの人混みから逃れるように端の方を歩き、息を吸う。  これが意味のない行為だということはわかっている。  たとえ人混みの真ん中でそうしていたって、呼吸はできる。  けれど私の気持ち的には、『息がしづらい』のだ。あの場所は。  目的の駅で降りる。  駅の名前を示す、『姫島』の文字になんだかうんざりした。  この町は苦手だ。  名前もそうだが、私と同年代、あるいは少し上、少し下といった『若者』が多すぎる。  聞こえてくる喧噪も、甲高い声ばかりだ。どうにも耳障りで、ここもいわゆる、『息がしづらい』場所。 「あっ、きたきた。夜見川さーん」  改札口を出ると、聞き覚えのある嫌な声がした。  ……華宮恵麻だ。 「今日は私の我儘に付き合わせてごめんね!」  自覚があるだけマシなのか、はたまた、『わかっていてわざと』言っているのか。  私が黙って立ち尽くしていると、彼女の取り巻きの視線がわかりやすく鋭くなる。 「夜見川さんで最後なんだよ。ほら、相手、待ってるから」  冷たい声で、取り巻きの一人が言う。  クラスメイトの子だと思うけど、私には名前すらわからない。  でもどの子も、煌びやかなメイクとイマドキな服装で、高校生というよりは大学生に見えた。  対する私は、まあ、わかるだろう。  年相応。下手したら、中学生とか。 「……あ、あの、華宮、さん」 「うん?」  あの時と同じ。  情けなくも足を震わせながら、私は喉から声を必死に押し出す。 「私、やっぱり……その、無理。一緒に、いけない」  あれだけあった喧噪が、ぴたりと止んだみたいだった。  しばしの無音の中で、華宮恵麻は呆然としていて、その取り巻きも同じようだった。  少し遅れて、一人が「はぁ?」と声をあげる。 「何言ってんの? どーいう意味?」 「恵麻が仲間外れにするのは可哀想だっていうからわざわざあんたを呼んだのに」 「この期に及んでさあ、何なの? わざわざここまで来て行けないって、意味わかんない」  視線が痛い。  あの男の到着はまだだろうか。  はたまた、私を見つけるのに時間がかかっているのだろうか。 「ちょ、ちょっと、皆落ち着いて……」  華宮恵麻が何かを言いかける。  が、知った事じゃない。どうせ今日は、こいつらと喧嘩をしに来たようなものなんだから。 「……か、彼氏がいるなら、行かなくてもしょうがない、んでしょ?」  私の反論に、取り巻きたちは一瞬固まって、しかしすぐにゲラゲラと笑いだした。 「なあに、行きたくなさ過ぎてお兄ちゃんにでも来てもらったの?」 「それともクラスの誰かに頼んだとか?」 「みせてみろよ、その彼氏クン!」 「み、みんな……」  笑う取り巻きたちを、ありきたりの反応で止めようとする華宮恵麻は、しかし視線をこちらに向けている。  本当にいるの? と疑うような視線だ。  私だって今すぐ見せてやりたい。  が、あのガラの悪い男、全然現れやしない。  時間も言った。曜日も伝えた。あの契約書にだって書いたのに! (全部私の夢だった、とか? はは、それなら笑えるな)  なんだかくらくらしてきた。  目の前がぼやけて、おぼろげになっていくようだ。 「つまんねー嘘ついてないで、さっさと行くよほら」  うつむいた私の腕を、一人がぐいと引っ張った。  ぐらりと傾いた身体をスローモーションで感じる。  あ、これ、たぶん顔面を床に打つやつだ。  こういうとき、自分のどんくささが嫌になる。 「よぉ凛子ちゃん。待った?」  軽快な声が頭上から突如降ってきたかと思ったら、私の身体の傾きは止まっていた。  顔を上げると、あの趣味の悪いアロハシャツが見えた。 「し、獅子堂、さん」 「おいおい、いつになったら名前で呼んでくれるんだ?」  男はあの日と同じ格好で現れた。  趣味の悪いアロハシャツと、朱色のサングラス。ライオンみたいな金髪の髪。  違うのは、私に対してひどく優しく微笑みかけているということだった。 「う、うそ、ほんとに……?」  取り巻きたちはおろか、華宮恵麻の足も、一、二歩退いていく。  そりゃそうだ。私だって、できれば関わりたくなかった相手だし。 「で。あんたら、俺の凛子ちゃんになんか御用?」 「ひっ」  わかりやすく怯んだ声をあげて、私を掴んでいた手が離れた。  その一瞬で男は私をあっという間に引き戻して、自分の腕の中に収めてしまった。 「ほ、本当に夜見川さんの彼氏さん、なんですか?」  きいたのは華宮恵麻だった。  取り巻きたちはすでにこの男の容姿に縮み上がっている。当然だ、私だって逆の立場ならそうした。 「そーだぜ。俺のライターを拾って届けてくれたんだ。凛子ちゃんはイイコだよなァ」  私は何も言えなかった。  何か言えば、ぼろが出そうだった。  華宮恵麻はしばらく私の顔を見つめていたが、「そうだったんだ」としばらくして呟いた。 「ごめんね、無理に誘っちゃって。また学校でね!」  さあ、いこ! と取り巻きたちの背を押して、華宮恵麻は地下鉄の出口へと消えていく。  私はその背をじっと見守っていた。  雑踏の中に消えていく背を見守ってから、ようやくのこと、男は私を手放した。 「こんな感じでよかったか?」 「は、はい。ありがとうございました」  本音を言えば、もっと早く来てほしかったけど。 「一応、今日はあんたの彼氏だけど。これで解散ってことでいいのか? もっとなんかするかい?」 「いえ、大丈夫です。私はこれから、家に帰るので」 「そうかい」  男はそう言うと、ポケットからあの日サインした契約書を取り出した。 「じゃ、こいつは履行済みってことで」  ぱちんと指を弾くと、あわせたように契約書が燃えた。  私は思わず慌てたが、雑踏の人々には見えていないのか、一人も騒いだりはしなかった。 「じゃあな、『お嬢さん』。縁があったらまた会おうや」  ひらひらと手を振って、男も雑踏に消えていく。  あんなにも目立っていたはずの男は、あっという間に人間達の中に溶けこんでいった。 (ははあ、これじゃ、誰も気が付かないわけだ)  じんじんとする頭を少し抑えて、それから私は潜ったばかりの改札を、もう一度潜りなおした。 「あ、あの!」  あの日曜日から、ほんの数日後。  学校からの帰り道で、私は再び、あの男の背中を呼び止めていた。  ライオンみたいな金髪と、趣味の悪いアロハシャツ。絶対に近寄りたくない類の背中だ。 「うん?」  声に聞き覚えがあったからなのか、くるりと自然に振り向いた男は、「アァ!」と声を上げる。  私の手には、あの日と全く同じライターがある。  そう、つまりは。 「これ、忘れ物、です」 「へへっ、悪い悪い、このズボンすぐ物が落ちるんだ」  これはさすがに、本当にわざとなのではないだろうか。  そう思って少し伏せ目がちに見上げようとした私の顔を、男はそれよりも先に覗き込んでいた。 「なァ、名前で呼んでくれないのか? 凛子ちゃん?」 「あ、れは、あの時限りで……」 「でもまたこうして『縁』が出来た」  サングラス越しに、男の目が光る。 「拾ってもらったお礼に、またなーんでも願いを叶えてやるからさ」  手を差し出されて、握りしめていたライターを、男の手の平に落とす。  あの時と今の私は、少し違う。  今の私は叶えてほしい願いがあって、心のどこかで、こうなることを望んでいたのだから。 「……本当に、なんでも、いいんですか?」 「もちろん」  忘れちまったのか? と男は嗤う。  夕陽が落とした男の影には、やっぱり蝙蝠羽根と尻尾が付いていた。 「この『獅子堂 京五郎』に、お任せあれだ」  耳に聞こえていた雑踏が、どんどんと遠のいていく。  私とこの男だけが、まるで別世界へと隔離されていくみたいだ。  じゃあ、と口を開くと男は「どうせなら」と私の言葉を遮った。 「またあの喫茶店で話そうぜ。凛子ちゃん、あそこのケーキが好きなんだろ」  ぐいと手を引っ張られて、男に連れていかれる。  もう二度と来れないと思っていた喫茶店の看板がすぐに見えてきた。  きっとこれは危ないことだ、本能ではわかっている。  わかっているのだ、けれど。 「前回はチョコレートタルトだったよな。今回は別の物を喰えよ」 「な、なんでですか?」 「俺がそれ、喰ってみたいから」  やっぱりわざと忘れたんだ。ニカッと笑う無邪気な笑顔に、私はそう思った。 (きっと、この『悪魔』から、私はもう離れられないんだろうな)  このまま死ぬまで、ずるずると彼の『忘れ物』を拾い続ける。  そんな未来を予感しながら、私はあの流行りの喫茶店のドアをくぐった。
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