宇宙人の卵

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 窓の外に広がる夜空をじっと眺めること、その少年にとって、それが唯一と言っていい楽しみであったから、不規則に揺らめき、そして近くの山へとそっと着陸するその不自然な光に彼だけが気づいたのも、きっと偶然では無かった。  その山へは走れば十分ほどで着く。いてもたってもいられず少年は、ゆっくりと立ちあがり、僅かな足音も立てぬよう玄関へと歩いた。狭いアパートの一室、幸運にももう父親は、錆びたノコギリを引くときのような不快な音のいびきを絶えず繰り返しながら眠っていた。  窓から入り込む僅かな光を頼りに、少年は床中に散らばるゴミを踏まぬように慎重に歩いた。父親の周囲に転がるいくつもの空き缶が示すように、多量の発泡酒に浸かりきったその肉体が、多少の物音程度で目を覚ますことはきっと無いだろう。だが万が一父親を起こし、さらにはこの外出の企てが父親の不安定な琴線に触れれでもすれば、たちまち父親はひどく擦れたその低い声を張り上げながら、気の済むまでまた僕の腹や胸や、頭を、何度だって蹴り上げ、殴りつけるだろうということを、少年はこれまでの経験から痛いほど、いや既に痛いなど完全に通り越してしまっているほど、知っていた。故にそれは少年にとって、冒険と呼んでもなんら差支えの無い外出だった。  最後まで音を立てぬよう玄関の扉を閉め、途端少年は走り出した。夜分、家を飛び出し、その山へ向かう妄想は既に彼の頭の中で何度も繰り返されてきたことだった。夜はもう随分と深く、ほとんど音も無い中、アスファルトを蹴る音と、激しく切れる自分の息の音だけが彼の耳に響き、またその音らは彼の狭い妄想の外にあった物事であったために、目に映る深夜の町景色や頬を擦る冷たい空気と共に、それらの新鮮は彼の内部で弾け、興奮を押さえられぬ彼は走りながらも笑っていた。  そして彼は走りながら、決して振り向くことも無かった。一度でも振り向いてしまえばそこにたちまちにして、自分の不在に気づき、後を追ってきた父親の姿や怒声が現れてしまう気がした。  少年は無事に目的の山まで辿り着いた。その山は比較的小ぶりな、小山と呼んだ方がふさわしい程度の山だった。  あの不思議な光が着陸したのはその中腹辺りで、少年は記憶を頼りにその光を目指し、木々をかき分けながら山を登っていった。時折、少年の立てる足音に目を覚ましたらしい鳥が飛び立つ音や小さな獣の駆ける音が響き、それはさらにその先で別の生物を起こし、そうやって山の先々へと生き物の音はこだました。  しばらく登ると、入り組んだ木々の隙間から、かすかな光がこちらへと漏れ入っていることに少年は気づいた。日の出にはまだ随分と早い。またそれは明らかに自然の放つものとは異なった光だった。  そしてその最後の木から恐る恐る顔を出すと、少年は相対したその正体に声を失い、途端身体は硬直し、それ以上動かなくなった。そこにあったのは山の木々が開けた僅かな場所に停泊する、巨大な円盤に他ならなかった。  艶やかな銀色をしたその表面は発光し、直視すれば目も眩むほどの輝きを放っている。その強い異質感を共に放ち続ける圧倒的な輝きは、そこに虫すら近寄せなかった。  少年はその円盤から目を離すことなど出来なかった。勿論自分の背丈など悠々と越えるほど巨大なその物体に対して、身が引きちぎれるほどの恐怖は耐えず湧き上がり続けていたが、それと同じくらい、むしろそれ以上の好奇心も同様にして、彼の全身を駆け巡っている。それに間違いは無かった。  懸命に勇気を捻出した少年が、自らを隠してくれていた木から外れるその一歩を踏み出した正にその瞬間、円盤はまるで破裂したかのような急激な閃光を放ち、少年の視界は一気に白い光だけに覆われた。  その白がようやく剥がれてくれたと少年が再び顔を上げると、そこにはもうあの巨大な円盤の姿は、影も形も無いのだった。そしてまた少年がその意味に気づき、すぐに夜空を見上げれば、既に遥か彼方へと飛び立ってしまった円盤の小さな光の粒だけが、夜空の中また不規則に揺らぎ、遂にはすっかりと消え去ってしまった。  いつか図書室で読んだ空想科学の本、今自分が見たあれは、その中に出てくる空飛ぶ円盤に違いないと少年は思った。しかし今さっきまで見ていたあの巨大な銀の円盤、その光景から、空想の二文字を消し去ることも出来ない。少年はそんな矛盾を整理しきれないまま、しばらく茫然と立ち尽くしていた。それほどにまでこの体験は、少年にとって信じがたいものであった。  そして興奮が再び少年の体内を巡り、彼が歩き始めた時、彼は先ほどまで円盤が直陸していたその場所に、朧げな光を放った小さなものが転がっていることに気づいた。  近寄り、持ち上げてみると、それは少年の手の平に収まるほどの大きさの、卵のようなものだった。それは朧げなその光を時折強く、弱くと明滅を繰り返しており、どこか温かく、また胎動のような印象を少年に与えた。  少年はそれを大切にポケットの中にしまうと、山を降り、帰路についた。父親が起きてしまう前に帰らなければ、どんな目にあってしまうかということを少年は思いだし、再び走り出したのだった。だが不思議とその恐怖は、この山に来た時よりも随分と薄れてしまったようで、少年は走りながら何度もポケットの中の卵をそっと握った。    それから少年はその卵と共に生活を送った。常に彼のポケットにはその卵が収められ、時折それを撫でたり、握ったり、両手で包んで温めたりするのだった。学校へ行っても友達がいない彼であったが、あれほど苦痛だったその孤独も、卵を拾ったその時から、そう悪くないものに変化した。昼休みや放課後は、一人図書室にこもりポケットの卵を撫でながら本を読んだ。この卵の正体を探ろうと、宇宙に関する本を片っ端から読んだものの、卵に関する記述はどこにも見つからなかった。  この卵が孵ると、宇宙人が産まれてくるのだろうか。自分達人間は卵生ではないから、そうなるとどうやら宇宙人は鳥や魚や爬虫類に近い生物になるらしい。あの円盤には間違いなく宇宙人が乗っていたのだろう。そしてこの卵は、きっとその宇宙人が忘れていったものに違いない。だからこの卵を大切に持っていれば、いつかまたあの円盤が僕のもとにやってくるのではないか。そしたらこの卵と一緒に、僕もどこかへと連れていってくれないだろうか。少年はそんなことを思いながら卵を撫で続けた。家に帰れば機嫌の悪い父親に、何度も殴られたり蹴られたりすることがあったが、不思議とその痛みでさえも以前よりずっと希薄に、ほとんど感じずに済むようになっていた。少年は過度に痛がり、反省し、反撃の気配など微塵も見せず、完全に屈服の意思を父親に示しながら、ポケットのその卵だけを大事に、それだけは傷つかぬよう割れぬようにうずくまり、守り続けた。    そうしてとある放課後、いつものように一人図書室で時間を潰していると、手のひらの上の卵が、小刻みに震え始めた。  少年が思わず床に置いたそれはなおも震え続け、さらにはピキリ、ピキリと小さな音が鳴る。見れば卵の表面には少しずつ亀裂が入り始めており、それは次第に数と長さを増していく。そして次の瞬間、卵は細かな多量の破片となって弾け飛んだ。光の粒のようなそれが弾けるその様は、さながら片手大の花火のように少年の目には美しく映った。  少年の目の前の床は卵の殻らによっていくらか散らかり、そしてその中央には、今まさに産まれたばかりのその生き物が、か細い産声をあげながら手足を僅かにばたつかせ、寝転んでいた。  あの円盤を想起させるような銀色の肌を、その生物は持っていた。産まれたてのためかその肌は僅かに濡れており、それは光沢をより一層に引き立てていた。大きな頭にすらりと伸びた両手両足、尻尾は無い。その姿は卵生とは思えぬほど、人間の形に近い。銀色の肌以外に異なる点を挙げるとすれば、人間よりはいくらか頭のサイズが大きいこと、さらにはその顔だった。立体的な鼻と唇は無く、短い線のような穴だけがそこにはあった。また目に至っては最も特徴的であり、その巨大な真っ黒い目が、顔の半分近くの面積を占めていた。  その生物の姿かたちは、少年が幾度もこの図書館で目にしてきた空想科学本の中に収められた、いわゆるグレイ型の宇宙人の挿絵に、かなり似ていた。  少年が恐る恐るその手を差し出すと、生物はゆっくりと少年の顔を見上げ、その手をまたゆっくりと少年の手に触れさせた。そして懸命に少年の手の中にまでよじ登ると、安心するように再び寝転び、今度は泣き声もあげずおとなしく、眠るようにその中におとなしく収まった。  少年はその生物を、大切に育てることに決めた。その生物をそっと上着にポケットに忍ばせると、誰にもばれないよういつもより余計に警戒しながら学校を出た。  どこで育てるか、まずはそれが問題だったが、いくら考えても都合のいい場所など少年には思いつかず、やはり狭い部屋の中で、父親に見つかることなくなんとかやっていくというのが、唯一にして苦肉の策に違いなかった。  これからどれだけ成長するか分からないが、今は片手に収まる程度の大きさだ、下手な鳴き声さえあげなければ、ポケットの中に隠しておくだけで十分だった。  祈るような気持ちで数日を過ごしたが、その生物が鳴き声をあげることは無く、あくまでもおとなしくしてくれているようだったので少年は深く安堵した。  またもう一つ少年が懸念したのが、その生物のエサの問題だった。小遣いすら一度も貰ったことの無い少年には、勿論自由な金など無かった。時折父親の命令により、バイトをやらされ、その稼ぎを強奪されることはあったが、それはあくまで父親のツテによる仕事であり、まだ高校生にもなっていない自分が、自発的に働ける場所を見つけ、さらには父親の目をごまかして働き続けることなど、どう考えても不可能だった。  さらにはこの生物が、地球の食べ物を受けつけるかさえ分からない。大気的な条件はクリアしているのか、今のところ平気な顔して生きているのだが、食べ物までとなると、一体この生物が何を好んで食べてくれるのか、少年には皆目見当もつかなかった。   だがそれらの心配は、みな杞憂に終わった。  驚くべきことにその生物は呼吸も、食事も一切として必要としなかったのである。  夜中少年が暗闇の部屋の中、どうやら寝たらしいその生物の顔を見ようと、こっそりとポケットから取り出した時、まず呼吸に気づいた。呼吸をしていないことに気づいた少年ははじめ、自分の不手際でそれが死んでしまったのだと思い、激しく狼狽えた。しかしそれを察知したのか生物が再び目を覚まし、少年の顔を心配そうに見つめ、窺うような動きを始めた時、少年は目の前のそれが、呼吸を不要とした生物であることを知ったのである。  食事に関しては、少年が手始めに適当な野菜や、肉や魚などを差し出しても生物が何ら興味を示さず、さらには何日が経っても生物の様子には変化が無く、むしろ少年のなつくほどに元気な様子を見せていくがために、もしや呼吸と同様、この生物は食事すら必要としないのではという推論が、日に日に確実さを増していったのだった。勿論生物は排せつも一切しなかった。  ただ、らしい仕草を少年に見せることはあった。  らしい仕草というのは、生物は時折少年に向かい、口をぱくぱくと動かすことがあった。それはまるで空中に漂う何かを食べているような仕草で、さらにはその仕草は大抵、少年が酷い憂鬱を抱えているような際に決まって行われるのだった。  例えば少年が父親に殴られ、響き続けるその鈍痛を少しでも逃がすため、部屋の隅で無理矢理眠りにつこうとしているような時、あるいは一人図書室の端で、不意に訪れた強烈な孤独感に、俯くほか無いその最中。いつの間にか自力でポケットから出てきたらしい生物はそのまま少年の肩の辺りまで這い上がり、口をぱくぱくと動かすのだった。  少年はその生物が、何かしら自分を元気づけているのだと解釈した。さらにはその無性に愛らしいその仕草に、気づけば癒され、笑みがこぼれる。そうなればもう、彼を苦しめていたはずの思いは、彼の頭の中からすっかりと消え失せてくれていた。    生物は呼吸も食事もしないが、成長はするようだった。  気づけば少年の片手のひらで十分に収まっていたはずのその身体は、悠々とその手足をはみださせるほどにまで成長していた。  そうなればもうポケットの中ではとても隠しきれぬ大きさであったが、不思議と少年の心には、何の焦りも生じなかった。正確に言えばいくらかの焦りや恐怖感は浮かんできたものの、その度に生物が口をぱくつかせ、そんな姿を見ているとそれらはたちまちにして、たち消えるのだった。  そしてとある日、道を歩いている少年のその手から、突然生物が飛び出し、どこかへと走り出した。  そんなことはこれまでになく、初めての事態だった。生物を失ってしまう恐怖にうたれ、少年も後を追って走り出す。それは少年が久しぶりに感じる、身が裂けるほど巨大な種類の恐怖だった。  いくつかの曲がり角を曲がると、少年は信じられないものを目にした。  目の前を走るその生物のその前方から、全く同じ生物がもう一匹、走って来ていた。  二匹の生物たちは合流すると、その途端激しく互いに抱き合い、そのまま片方に押し倒されるようにして道の上に身を崩した。そして互いに身を震わせ、時にはその片方が甲高い声をあげた。それが恐らく彼らの交尾であることを少年は思った。  その少年は知らなかったが、巨大な円盤、そしてそれが残す小さな卵は、世界各地で度々目撃されていた。  卵からは同じようにその生物が孵った。  その生物は呼吸も食事も排せつも必要としていないが、正確に言えば食事は必要としていた。だが地球上の生物のような肉や魚、野菜などといった物質的な食事ではなく、その生物が食べるのは恐怖感だった。  傍らの他の生物の近くに寄り添い、その生物は口をぱくつかせる。その時まさにその生物は恐怖感を捕食していた。そのために傍らの人間達は心地良い安らぎを得、その生物を傍に置いておくことを強く好んだ。  少年のもとから突然走り出したその生物のように、世界各地の生物達は時折、自らのつがいを見つけ、繁殖を始めていった。  人々は初めこそ得体の知れないその生物に多少の抵抗や警戒を見せていたが、恐怖や不安から解放されることは人々の想像以上に気持ちの良いものであり、すぐに人々は生物を受け入れ、ある一点を過ぎた頃からその生物は人々のペット、あるいはベストパートナーとして、その繁殖を急激に加速させていった。  研究者たちはその生物を調べたが、彼らが人々の不安や恐怖を摂取してくれること、それ以外に何か危険性も見つからず、それによってある種後ろ盾を得た人々はまた、その生物の繁殖を加速させていった。  少年はうずくまっていた。何ら特別なことが起きたわけでは無い。いつものように酒を飲んだ父親に暴行を受けた。ただそれだけの話だった。  満足した父親は寝息をたてている。不快なその音を聞きながら、少年はいつものように暗く狭い部屋の隅で、痛みにじっと耐えている。  横になり目の前では、銀色のその生物が彼に向かい、また口をぱくつかせる。そうするだけでいくらか楽になる。父親への恐怖は消え去り、残ったのは各部の痛みだけで、それだけであれば耐えることも容易かった。  だがそこでふと、少年の頭には思い浮かぶのだった。  なぜ自分は、何の抵抗もなく、ただこの痛みを受け入れるばかりなのだろう?  あそこで眠っているあの男が、自分の父親だから?酒を飲み、気まぐれに自分を傷つけるばかりの、親としての義務など何一つ果たしたことの無いあの男が、自分の父親だから?だからひたすらに黙り、何をされようと、何もしてくれなかろうと、ただじっと耐え忍び続けなくてはいけないのだろうか。それをいつまで?  もしもこの男が目の前からいなくなってくれれば。自分の手で、消すことが出来れば。  気が付けば少年は、足音を殺し、歩いていた。キッチンに辿り着くと少年は、引き出しから一本の包丁を取り出し、握った。父親の傍らまで忍び寄ると少年は、包丁が握られたその右腕を振り上げ、どこまでも強く、振り落とした。人を殺す恐怖は、微塵も無かった。    恐怖は知的生命体にとって、リミッターのようなものだった。  恐怖があるからこそ人間は、むやみやたらに人を傷つけないし殺さない。そんな側面が確かにあった。  だがその生物によって恐怖や不安を取り除かれてしまった人々は、度々自らの目前の利のために、安易に人を傷つけ始めた。殺し始めた。  殺してしまえばそれから自分がどうなってしまうかなど、もはやそれを考慮する思考が恐怖と共に消え去っていた。  少しずつその規模をまた育てた人間達が、大規模な戦争を始めるのも、もはやそう遠い話では無かった。  銀色の円盤は、地球の付近を漂い、じっとその時を待っていた。  その中で操縦しているのは、人間よりいくらか巨大な、いわゆる宇宙人というやつで、その姿は地球人の想像では及ばないような複雑怪奇な形をしていた。  彼らは地球の各地に落としたその卵から孵った生物たちが、地球人の恐怖感を残らず食い尽くし、それによって地球人が自滅し合ってくれることを、今か今かと待ち構えている。  その生物は彼らの持つ生物兵器のようなもので、あの少年が想像していたような、彼らの忘れものというわけでは決してなく、彼らは故意にそれをばら撒いた。  彼らは地球の環境や資源を欲しがっていたが、なにせ地球人達が邪魔だった。彼らの持つ圧倒的な化学兵器の類で一掃しても良かったのだが、それよりも適当に卵をばら撒く方法の方が、多少の時間こそかかるにせよ、無駄なエネルギーを使うことなく片付くため、効率的であった。  いくらかの時間が経ち、宇宙人らの思惑通り、地球上では数多の戦争が始まった。  戦地では次々と人が死んでいき、また新たな人が際限なく駆り出されていった。  戦争を行うことは、戦地に赴くことは、自分達の死に直結することだと分かってはいたが怖くなど無かった。彼らの傍らにはいつだって銀色の生物がいた。その生物はいつだって彼らの味方だった。いつまでも恐怖を取り除いてくれた。
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