特別な一日

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特別な一日

車から降りた僕を見るやいなや佐伯陽菜は悲鳴を上げた。想定内だったので驚きはしなかった。が、流石に「ナツコ!」と素っ頓狂な叫び声が耳に飛び込んできた時は心臓が跳ね上がった。振り向くとも車を降りていた。車内でふたりの相手は僕がすると打ち合わせして姉も分かったと返事をしたのに。僕が制止しようとしたのを察して姉は首を横に振る。姉の険しい目つき。説得は無理だと諦めた。姉はふたりの目と鼻の先まで近寄って仁王立ちをしてみせた。 「誰ですか、あなた」と佐伯陽菜が言った。姉は目の前の男を顎で指す。 「この人の妻です」 佐伯陽菜は「えっ」とだけ言った。真横にいる自分の彼氏であり姉の旦那である男。陽菜の目は何度も姉と旦那を往復した。その間、姉は旦那から全く目を逸らさずにいる。 「たっ、たっ、たっ、たたっ、」余程衝撃を受けたのか、陽菜はまともに話す事がままならなくなっていた。「こっ、こここ、このっ、この人のっ、ゆっ、ゆっ、ゆっ、ゆってる事って、う、うそ、うそっ、うっ、うそっ、だよねええっ?」 絞り出す様に声を出して質問する佐伯陽菜だが返ってくるのは沈黙だけ。答えが無い意味を理解したのか陽菜はその場にへたり込んだ。姉は陽菜など知った事かと言わんばかりに旦那を睨み続けている。 「どうして」ずっと黙っていた姉の旦那がようやっと口を開いた。「ここにいるんだよ」 姉はふんと鼻を鳴らす。最初に言う事がそれかと呆れているのだろう。真後ろにいる僕には表情が見えないけど察する事は出来る。旦那の第一声を間抜けに思えたのは僕も同じだ。「浮気してるかもしれない」と旦那の行動を不審に思った姉が相談しに来たのが半年前。カメラを持って旦那を張った。長期戦になるかもと思ったが佐伯陽菜との密通を捉えるのは案外早かった。それからは旦那と陽菜をずっと尾行する日々。途中で2回ほど陽菜に姿を見られた時は失敗したと思い、夜も眠れなかった。陽菜がとばかり考えた。警察に通報されたら厄介という事もあるが、姉からの仕事依頼をオジャンにする不安の方が強かったのだ。大事には至らなかったのは本当に幸いだった。慎重を期して行動し旦那が独身だと偽って陽菜と付き合っている事、会社の仕事で出張だと姉に伝えた日に陽菜と温泉旅行を予定している事を突き止めた。その現場を押さえたいと姉が言い出した時に何度も考え直せと言った。冷静でいられるから大丈夫と答える姉の目。必ず何かをやらかすだろうと頭に留めた。旦那を睨みながら姉は片手を自分のショルダーバッグの中に突っ込んだ。そして直ぐに訝しげな表情を見せてバッグを引っ掻き回した。目当ての物が無いと戸惑う姉に僕はそっと耳打ちした。 「包丁なら無いよ」 姉は無言で僕を見つめた。その目はと訊いていた。当然だが教えはしない。後は任せて欲しいと姉を退かせた。「なあ」と旦那が座り込んだままの陽菜を抱きかかえながら言った。 「話は帰ってからにしようや。ここまで来て宿泊のキャンセルなんて出来ないし」 耳を疑ったが旦那は冗談を言っているのではないらしい。折角の温泉旅行を台無しにしたくないから続けるだと。旦那をぶん殴りたくなったが姉を止めた手前もある。姉は姉で旦那の非常識な発言に呆れたのか深く息を吐いて言った。 「勝手にしたら?」 旦那は何度も「ごめんな」と言いながら陽菜を連れて行ってしまった。さっきまで旦那に対して感じていた怒りは嘘の様に消えていた。それよりも早く帰りたかった。グローブボックスの中が気になって仕方がなかったのだ。早く姉の家に戻しに帰る事にしよう。 〈了〉
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