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僕の特別な一日
温泉街は週末の休暇を楽しむ人たちで賑わっている。僕はそれをただ車の中から見ているだけ。本当なら僕もあの人混みにまじりたかった。恋人と一緒に観光名所を回ってみたかった。しかし悲しい事に女性とお話する機会というものに僕は縁が無い。小学生の時からそうだった。運が良ければ掃除当番をやりたくない女子からのお願いがあった時に話しかけられる。その程度のやり取りしか経験が無い。きっと目には見えない陰気臭さが僕にはあるのだろう。2歳年上の姉にはよく「人と話す時に下を向いているせいだ」と指摘されたものだ。確かに姉の言う通り。僕の性格を形作ったのは誰の所為でもない。僕自身だ。ただひとつ言わせて欲しい。それをどうしろと言うんだ。実際何度か姉に言ったが反応はいつも同じ。その態度が良くないとなる。やがて言い返すのが億劫になる。女性どころか誰とも話さなくなる。堂々巡りだ。やれやれと首を横に振り鞄から数枚の写真を取り出す。佐伯陽菜が楽しそうにデートしているところを撮った写真。ある時は仕事帰りの居酒屋で。ある時はファミレスで。何枚かの写真の中には彼女がこちらを向いているのもある。この時の彼女は僕の事をどう思っただろうか。ふとそんな疑問が過る。この写真を撮った日の夜。たいした事は考えてないだろうとかもしかすると気になったかもと考えてしまい、なかなか眠れなかった。写真を片手に手帳を開く。カレンダーのある日に丸をつけたのだ。今週の土曜日。つまり今日。9月9日。温泉の日。僕にとって今日は特別な一日になるだろう。それはきっと佐伯陽菜にとっても同じに違いない。車が急に停まる。目の前には佐伯陽菜の姿があった。当然彼女はひとりではなかった。グローブボックスをそっと開ける。家にあった出刃包丁。それを見て僕は深く息を吐いて外に出た。
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