「遺構の忘れ物」

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「よっ」  と、掛け声とともに、ミヤビは手前の瓦礫を外へと放った。  まったく、どこにそんな体力が残っているんだ――と、私は感心しながら、彼女の後をついていく。  浸水していない遺構は、久しぶりだった。  私たちの歩いているこの街は、数キロメートル先のダムの故障のせいで、深刻な浸水に見舞われていた。  放置され、苔むした車両は清水に浮かび、たくましい植物は、ビルの外壁を貫いて枝葉を伸ばしている。 「誰かいませんかー!」  と、ミヤビは遺構に向かって、何度か大声を張った。この街に入ってから、生存者は今のところ、ひとりも見つかっていない。  このあたりの建築物はほぼすべて浸水していて、人が暮らせるような状態ではなかったから、おそらく、ここに誰もいなければ、他の場所にもいないだろう。  遺構は、せりあがったコンクリートのうえに建っていた。  屋根は剥がれ落ち、日光がそのまま入ってきている。  その日光の手の届く範囲で、いくつもの植物が植生していた。  食べられそうなものもあるけれど、その大半が血で汚れていたため、触れる気すら起こらなかった。 「ミヤビ」  と、ずかずかと前に進む背中に声をかける。 「離れちゃだめだよ」  すると、ミヤビはくるりと回って、 「わかってるよ、ササキ。」  と、私の名前を呼んだ。 「でも、多分このへんはゾンビいないよ?」 「どうしてそう思う?」 「付着してる血が古すぎる。ゾンビだって、食事のために人間を襲うんだから、食料のない場所に長居はしないよ」 「まあ、それもそうだが……」  私は、ずいぶん前に拾って杖代わりにしていた鉄の棒で、近くの壁を指した。  そこには、赤色で、いくつもの四角形が重なった幾何学模様が描かれていて、その中心に、カシスの実の絵が描かれている。 「イニシアチブ・クローズドの紋章だ。」 「いにゃにゃ……なんだっけ、それ」 「各地に拠点を置いて、勢力を拡大してる、武装集団だよ。最近は穏健派だって聞いてはいるけれど、銃を持っている以上、危険であることには変わりない。……ひょっとしたら、彼らがなにか、罠を仕掛けている、という可能性もあるな」  イニシアチブ・クローズドには、いい思い出があまりない。  立ち上げから、私は二年ほどそこに属していたけれど、結局抜け出すことになってしまった。   リーダーであるモモイとは、数年来の仲ではあったけれど、私の知っているイニシアチブ・クローズドは、彼女に絶対服従で、略奪や強奪を繰り返していた。  彼女の美麗さとカリスマ性に魅せられた者が大勢いたのだろうが、私には耐え切れなかった。  ある晩こっそり抜け出して、放浪の旅の途中に、ミヤビと出会った。  私は粗だった壁を指先でなぞった。指先に砂埃が付着する。数か月のあいだ、ここは無人だったはずだ。けれど、この環境下では、そのことは逆に不自然だった。  私は改めて、この遺構を見回す。  水に囲まれている以上、ここはある種の拠点として成立するはずだ。  ゾンビどもの攻撃だって、イニシアチブ・クローズドの武力があれば、難なく凌げただろう。拠点として成立するならば、旅人狙いのハンターを心配することもない。  であれば、ここを手放す必要など、ないようにすら感じてしまう――いったいどうして、ここには誰もいないのだろう。  私はおもむろに、傍の戸棚の引き出しを開けてみる。 「……レーションに、缶詰まで……食料に困っていたわけでもなさそうだ」  私は、そこに格納されていた食料をすべて、自分のリュックサックのなかに投げ入れる。  そのとき、奥の部屋から、ミヤビの声が聞こえた。 「ササキ、ちょっとこっち来て」  どうやら、なにかを見つけたらしい。  ミヤビの声のするほうへ部屋をたどると、彼女はガレージにいた。車はないが、代わりにストレッチャーのようなものが中央にある。  ミヤビはそのガレージの入り口から、部屋全体を覗き見ていた。 「なにやってるんだ」  と私が訊くと、彼女は黙って、そのストレッチャーのほうを指さした。 「人がいる」  人?  と、訊き返そうとして、けれどその言葉は、声にはならなかった。  代わりにそれは、衝動的な行為に置換された――私は思わず、それに近付いた。  罠の存在を危惧しておいて、あり得ない行動だった。 「違う。これは人じゃないよ」  ストレッチャーの、青の布のうえに寝かされていたのは、本格的なドールだった。  しなやかな髪、光沢のある唇、大きな瞳……かなり手入れが行き届いている。  ここまで綺麗なものを、実際に見たのは初めてだった。 「すごいね、ササキ」  と、隣のミヤビが小さく漏らす。 「ああ。」  私も、その意見に同意した。目と鼻の先のそれはあまりにも美しく、翻って、自分たちの汚さを責められているような、居心地の悪さすら感じた。 「これ、どうしてここにあるんだろう?」  と、ミヤビは首を傾げた。 「忘れ物かな」  確かに、このドールが、イニシアチブ・クローズドに所属している者の持ち物ならば、ここに置き去りにする意味がない。  だとすれば、何かトラブルがあって――ここを急いで離れなければならない、といったときに、急すぎて持ち運べなかった、というのが妥当なところだろう。  これは、イニシアチブ・クローズドの誰かの忘れ物なのだ、という仮説は、十分に成り立つように思った。  けれど。 「仮に忘れ物だとして……ここまで美しいものを、大切にされていたであろうものを、置き去りにするだろうか? 普通、持ち帰るために、一度体制を立て直してから、戻って来ようとするんじゃないかな」  ミヤビは答える。 「きっと、帰れなくなるくらい、ここが危ない場所なんだよ」 「……でも、私たちは今、まさにここにいるぞ」 「あ、そっか。じゃあ、なんでだろうね」 「罠って可能性は、今のところなさそうだし、ブービートラップみたいに、触れた瞬間に何かが起きるような仕掛けも、見当たらない」  ミヤビの言った通り、やはり取りに帰ってくることができなかった、というのが妥当かもしれない。  けれど、どうして帰れなかったのだろう?  もしくは……なにか、ここにドールを置いて行った、理由があるのかもしれない。  例えば。 「ドールが、死んだ仲間の形見だったとすれば?」 「ああ。ゲームとかでよくある、その人が使ってた剣をお墓に見立てるやつ?」 「そう。それと同じ感じで、あのドールが、誰かの墓標になってるんじゃないかな」  ありていに言えば、ドールなんて代物は、この荒廃した世界において、そこまでの価値を持つものではない。  この世界では、食料や飲料のほうが、よっぽど価値があるだろう。  いくら美しく、大切にされていたものでも――いいや、だからこそ、彼らは、故人の元から引き離したくなかったのかもしれない。  所有者が生きていた証として。 「ねえササキー」  ミヤビは目を細くして、猫を撫でるみたいな声で言う。 「この子、持ってってっちゃ駄目かなあ」 「だめ」  私は即答した。 「この子が本当に墓標になってたらどうするの。それに、こんなに大きなもの、持って運んでいけないよ」 「うへえ、確かに、これで祟られたりしたら、縁起でもないもんね」  ミヤビは、そのまま溶けてしまいそうな顔をして溜息をついた。  私も、それに合わせて、どこか気が抜けてしまったのかもしれない……私は、ほとんど無意識で空を見上げた。  空はすでに、赤らんでいた。 「あっ! まずい!」 「うあ、もう夕方だねえ」 「今日はここで泊らないとだ」  私はその場に、ぐでん、と尻餅をついた。  まあ、ここに泊ることは、野宿をするよりもマシだろう。けれど、できるならば、本来の目的地――カナメ村に到着しておきたいところだった。 「予定だと三日で到着するはずだったのに、これで三日オーバーだな」 「仕方ないよ。ゾンビの襲撃もあったし、橋が壊れてたりしたし」  そう言うミヤビは、すでにリュックサックから寝袋を取り出している。私はまた溜息をつきながら、先程見つけた缶詰を開けた。 「焼肉」と書かれたそれは、有名な食品メーカーのものだった。とはいえ、もう何年も前に廃業している。賞味期限も残り二週間だった。  寝袋に身体を半分入れながら、ふたりで焼肉の缶詰を囲む。 「ここも、夜になると冷え込むねえ」  ミヤビは一度大きく震えると、両手で両腕をごしごしとさすった。私はガスボンベを取り出して、 「飲む?」と尋ねる。 「うへ、コーンスープはこの前切らしてたでしょ」 「だから、お湯だよ」 「……お湯」 「さっき調べたら、ここはまだ水道が使えたんだ。浄水施設が動いているのかは謎だが、煮沸すれば飲めないこともないだろう」 「うーん……やっぱりやめとくよ」  ミヤビは顔を横に振って、それから隣、ドールのほうを、ゴムで束ねた髪を揺らしながら振り返った。 「この子、本当にどうして、こんなところにあるんだろうね」 「お墓か、忘れ物か……どちらにしても、謎は残るな。第一、これをここまで運んできたこと自体が、謎めいていると言えばそうだが」  私は手元の食料を見る。 「考えてみれば、逃げ出したにしろ、お墓にしろ、まだ食べられる食料をこのままにしておくというのは、やはり怪しいな」 「お供えものなんじゃない? お墓の。」  ミヤビはそう言って、ドールの乗ったストレッチャーを覗き込む。 「これ、もしかしたら、神様なのかも。」  ……神。 「つまりこれは、神の造形を象った、偶像ってことか?」 「これが作られたときの意味は分からないけれど、所有者が偶像としての役割を、あとか後付けたとしてもおかしくないんじゃない?」 「しかし、こんな荒廃した世界で、新たな宗教なんて……」  と、言いかけて、黙る。  イニシアチブ・クローズド。  あれだって、言ってしまえば、モモイを神としている宗教に変わりない。彼女のカリスマ性を用いた、絶対王政の宗教団体。  私は思い出す。  モモイと最後に話した日。あれは確か、激しい雪の日のことだった。  彼女は確かに、こう言ったのだ。  私が世界を再構築する、と。  そんなの、神の所業に他ならないじゃないか。  どうして、そんなに身近に発生した現象が、別の場所では起こらないなんて発想になるんだろう?  しかし、だとすれば、説明がついてしまう。  ミヤビはゆっくりと、私たちの囲んでいた缶詰を指さす。 「それが供え物で、」  続けて、ドールを指して、 「これが神で、」  それから、自分の足元を指さした。 「ここが、聖域。」 「聖域……。」  ミヤビは据えた目で、ドールを見つめる。 「鳥居って、結界への入り口って意味があるんだってさ。だから参拝のとき、手を洗うし、鳥居の前で一例する。」  ミヤビはドールの髪をそっと撫でた。 「このドールを置いておくのは、聖域から神を出さないため。食料が置いてあるのは、お供えもののため。大切にされた形跡があるのに、置き去りなのは――大切で、しかもここになくてはいけないから。」  それから、私のほうを振り返った。 「聖域に踏み込み、神を象った偶像に触れ、あまつさえお供え物を食べた私たち……いったい、どうなっちゃうんだろうね」 「な、な……こ、こわいこと、言うなよ」 「ササキ後ろ!」 「ぴゃっ」  びっくりして振り返ると、しかしそこには、誰もいなかった。 「今だっ!」  と、ミヤビは叫んで、私のぶんの焼肉を一気に口のなかに入れた。 「うわ、なにをする!」 「そなへほほはほはなにはいっはははなはへははるはい(供え物が戸棚に入ったままなわけがあるまい)」 「くっ」 「そもそも、さっき触ってみたとき分かったけど、あのドール、結構ホコリ付いてるよ。お寺なんかは、仏像も綺麗に掃除するらしいけれど、これはそういう類じゃないね。」  ミヤビはにへら、と笑った。 「どう? びっくりした?」 「尻子玉がすっぽ抜けるかと思ったよ」  これはまったく、冗談ではなかった。  食べるものもなくなったので、明日に備えて眠ることにした。一応、缶詰の類は集められるだけ集めたので、収穫はあったと言えるだろう。  私とミヤビは、横に並んで寝転がる。 「ねえ、ササキ」  ミヤビは寝袋をごそごそとさせながら、私のほうを向く。 「モモイさんって、どんな人だった?」  そんな質問は予想していなかったので、私は一瞬、反応は遅れた。 「……どうして?」 「イニシアチブ・クローズドの紋章、あったじゃない。それで、ササキと初めて会ったとき、同じグループの名前を聞いたことがあるな、って。」  ミヤビは真剣な表情だった。 「ササキ、初めて会ったとき泣いてたじゃない? どうしたのか教えて欲しかったけど、教えてくれなかったから」  私は少しだけ、考えた。話すべきことかどうか、迷ったのだ。 「……モモイは、変わった奴だったよ」  私は、記憶のピースを合わせながら答える。 「ゾンビ化した奴でも助かるって希望を捨てなくて、いろんな場所を巡って、いろんな薬で試して……でも、駄目だった。何度やっても、何度やっても駄目だった。」  私はモモイを思い出す。  まだ、イニシアチブ・クローズドを起こすよりも前の話だ。 「ある時、噛まれたと証言した子供に、カシスの果汁を注入したことがあった。そのころ、彼女はほとんど自暴自棄で、それも多分、適当に注射しただけに違いない……でも、その子はゾンビにならなかった。」 「え、すごいじゃん」 「当たり前だよ。だってその子は、噛まれてなかったんだもの」 「……。」 「その子は、お母さんと喧嘩して、その腹いせに、自分で腕に歯形を付けて、噛まれたって言ったんだ。」  あれも、冬の日だった。 「多分、モモイだって、それがゾンビに噛まれたものじゃないことくらい、分かっていたと思う。 ゾンビが噛むとき、大抵は肉ごと持っていかれる。けど、私が見たとき、彼女の腕には、小さな乳歯の歯形しかついていなかった。」  私は、ミヤビのほうを向く。 「それでも当時は、ようやく治療の方法が分かったって、みんな喜んでたよ。そして、その反応に、彼女は酔わされていった。 彼女は、カシスの実を得るために、軍を結成して出征した。 けれど当然、カシスの果汁を注射しても、治るはずがない。  それでも彼女は、それが解決策だと信じて疑わなかった。彼女は軍を率いて、実験のための資材と、食料を略奪し始めた。」 「止めようとはしたの?」 「うん。でも聞いてくれなかった。」  私は空を見上げる。  屋根の剥がれた天井からは、星空が見えている。 「喧嘩になって、仲たがいして……それで最後に、私がアジトから逃げた。」 「それで、私に出会った、と。」 「まだあの馬鹿げた実験をやっているのか、それとも、略奪だけを繰り返す集団に成り下がってしまっているかは、私にも分からない。  でも、もう私が知っているモモイはいないんだ。それだけで、あそこには帰らない理由は十分」 「そう」  ミヤビも、天井を向く。 「星、綺麗だねえ」 「うん」  私はうなずく。  今日はよく眠れそうだった。  私はゆっくりと、微睡みに巻き込まれていく。  夢を見た。 「……ちゃん」  そこは吹雪で、すべてが白色だ。 「……ササキちゃん』 「モモイ?」  私の呼びかけに、その影はひとつ、うなずいた。  途端、吹雪は弾けたように晴れる。  間違えたみたいに青い空が、一寸の淀みもなく広がる。鉄骨、足元に広がる巨大な湖は、広場に蓄積された水溜まりだろう。すべての色彩が、歪められて、その一面に広がっている。  波紋が、中央から広がっていく。  彼女が振り向いたのだ、と分かる。 「モモイ!」  私は叫ぶが、足を前に出すことができない。 「……っ!」  見れば、私の足は、木の根に変えられてしまっている。私はそこから、モモイのところに歩み出せない。 「ササキちゃーん」  遠くで、私のほうに手を振るモモイの顔が見える。 「モモイっ!」  私は声の限り叫ぶ。 「ササキちゃん」  急に、すべてが聞こえなくなった。 「ササキちゃん、私は世界を変えるよ」  モモイは耳元で言う。 「もう誰にも止められんよ」  モモイ。  その目はゾンビのように、黄色く濁ってしまっていた。 「ササキちゃん」  モモイ……。 『……ササキ……」 「モモイ!」 「ササキ! 起きろ!」  目が覚めると、顔のすぐそばに天井があった。唐突な浮遊感に、感覚がまったく追いつかない。途端、自由を失って沈む身体。室内を埋め尽くす水……。 「ダムっ!」  ミヤビがそう、叫んだ。 「放流だ! ダムは完全に壊れたわけじゃなくて、今もまだ自動で動き続けてるんだ! イニシアチブ・クローズドの連中もきっと、この放流で溺死したんだっ!」  紋章。  置き去りになった食料。  拠点になり得る、適当な位置。  それから――ドール。 「あいつら……ここで溺死して、それで、死体はゾンビに喰われたのか! あの血痕は、ゾンビじゃなくてイニシアチブ・クローズドの……!」 「はやくこっち! 手を掴んで!」  伸ばされたミヤビの白い手を私はぎゅっと掴む。ミヤビが私の身体を引っ張るのと同時に、壁を蹴ってその方向へ飛ぶ。 一か所、天井が剥げている部分があった。  あそこに行けば、溺死は免れるだろう。 「急いで!」  先に上がったミヤビが、私のほうに手を伸ばす。  そのときだった。  視界の端。  浮かんでいるストレッチャー。  濡れていない、ドール。  あれだけが残ったんだ。  幾人もが死んで、唯一。  あのドールだけが残った。  そうだ。あのドールは忘れ物だ。  忘れ物でもあり、墓標でもあったのだ。  以前、ここにいた者たちの、生きた証。  私はミヤビの手を片方の手で掴んで、もう片方の手で天井のへりを掴む。  そして、力いっぱい、自分の身体を押し上げた。 「ぷはっ!」 「は、はあ……危なかった……」  私とミヤビは、なんとか天井に上がって、溜息をついた。ここの天井以外は、もうほとんど、水で埋め尽くされてしまっていた。  この建物だけではない――月光が照らしてくれる範囲のすべてが、水面の下に沈んでしまっていた。 「ゾンビって、溺死するかな」  と、ミヤビが訊く。 「多分しないと思う」  私は答えて、勢いよく水の流れていく道路を見つめた。 「けれど、餌なしじゃあ、ゾンビも生きてはいけないだろうし、どこかに餌の匂いを求めて、出て行ったんじゃないかな」 「な、なるほど」 「まったく、予定には遅れるし、ダムの放流日に当たってしまうし、散々だな」  私は深い溜息をついた。 「ササキ、なんか怖い夢でも見た?」  と、ミヤビは空を見ながら尋ねる。  そのほうに何があるのだろう、と私も空を見上げた。  そこには、夜の闇を埋め尽くさんばかりの、大量の星が浮かんでいた。 「少し、モモイの夢をな」 「モモイさんか……やっぱり、イニシアチブ・クローズドの夢?」 「いいや」  私は首を振る。 「パンデミックが始まるまえ……まだ、世界が壊れるまえ、ふたりでよく遊んだ、廃墟の夢だったよ」 「そこで、モモイさんとはどんな会話を?」 「会話なんて、もうできなかったよ。」 「そっか。」 「名前を呼ぶことしか、私にはできなかった。」 「……そっか。」  夜が明けるころには、ダムの放流も終わったようで、水もすっかり抜けてしまっていた。  廃墟、ドールのあったガレージをよくよく調べてみると、ボールくらいの穴が中央に開いていた。 おそらく、ここから排水したために、ドールを乗せたストレッチャーは、中央に位置していたのだろう。  私たちは濡れてしまった衣類を乾かしてから、出発の準備をする。  青空に穴が開いたみたいな太陽は、すべてにまんべんなく光を分けていた。  私たちは、昔のどこか、誰かの忘れ物であるドールに手を振ると、その建物を抜け出した。  草葉は風になびき、所々にある水溜まりは、朽ちて飛び出した鉄骨を伝った雨音によって、断続的な波紋を浮かべている。  きっと、これからもあそこに訪れる人々は、取り残されたドールを見つけ、その謎に思いをはせることだろう。  今でも、あの薄暗いガレージに、あのドールは静かに眠り続けているのだ。  目的地まではしばらくある。 「それじゃあ、行こっか」 「そうだな」  私たちは靴紐を結んで、歩き出す。  荷物だって、再三確認したのだ。  きっと、忘れ物はしていないはず。
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