0人が本棚に入れています
本棚に追加
「いらっしゃい…、おや、珍しいお客さんだ、まさか大臣様とは。」
店主は帽子を被った若い男だった。というより、幼い男の子のように見えた。そのすぐそばでは、もっと幼い女の子が店主を手伝っており、どうやら2人で生計を立てているようだった。
「ああ、ちょっと入り用でね。牛乳を1杯欲しいんだが、売っているかい?」
そんな2人に大臣が同情することはない。
「ヤギの乳ならあるぜ。一杯30マールだ」
声がまだ低くなりきらないうちから、当然のように客の足元をみることができる者に、その必要はないという大臣の一種の敬意なのだ。
「なに、30マールだって?馬車の乗車賃より高いぞ?もっとまけてくれないと到底買えないよ」
「まあそんなこと言うなよ、大臣様。あんた、稼いでるんだろ?俺たちはその日の暮らしだって苦しいんだ。妹にも食わせないといけないし……、な?だからさ、ちょっとくらい高くったって、目瞑ってくれよ」
「いいや、牛ならまだしもヤギの乳で30マールは高すぎる」
取引は戦いだ。弱みを見せたら最後、つけ込まれ、搾取されてしまう。だからこそ毅然とした態度を崩してはならない。客の気を引けるものなら何でも使う路上売りならなおさらだ。
「…じゃあ、こういうのはどうだい?」
大臣の頑なな態度を見て、店主は口元をニヤリと歪ませた。
「まず、代金は30マールだ。それは変えられない。ただ、それだとあんたが納得しないだろうから……、あんたの悩みの種である『忘れ癖』を治してやるよ。もしそれが失敗したら、代金は3マールでいい」
誰にも言ったことが無い自分の欠点を店主が言い当てたことに驚き、大臣は一瞬の動揺を表情に出してしまった。当然、路上売りの店主がそれを見逃すわけがない」
「お、やっぱりあたりか。大臣様がこんなとこに来て、しかも30マールなんてはした金を渋るなんて変だと思ったんだ。おおかた、財布でも忘れたんだろ?それでも、ここで値踏みして商品を買おうとしているのは、少量の金銭を入れた予備の財布をいつも持ち歩いているからだろうよ。そして、そんなの持ち歩くやつは忘れ癖があるやつだけだよな」
嬉しそうに笑う店主とは対照的に、手持ちが少ないことまでバレてしまった大臣の顔は曇っていく。
「安心しろよ、さっきの話を呑むなら、今日のところは3マールで売ってやるよ。治療が成功したら、残りの金を払ってもらう。どうだ?悪くないだろ?」
見透かしたような店主の言葉に、大臣は冷静さを取り戻す。そう、大臣にとって悪い話ではないことに気づいたのだ。むしろ、30マールで自分の欠点がなくなるというのであれば、魅力的な話ですらある。
「うむ、確かに悪い話ではない。しかし、その方法を教えてもらいたい。変な薬でも飲まされたらかなわんからな」
魅力的な話だと気づいたことで、さらに慎重になる大臣。やはり有能なのである。
「まあ当然か……簡単に言えば、催眠術だ。それで脳の海馬ってところに刺激を与えるらしい」
「なに、催眠術だと?怪しいな。もしやそれで私を洗脳でもするつもりじゃないだろうな」
ぎょっとする大臣に店主は笑い声をとばす。
「あはは、そんなことできるなら、路上売りなんてしてやいないさ。催眠術って言ってもよ、隣国では、れっきとした治療法なんだぜ?ほら、これ見ろよ。『この治療により、患者の忘れ物をなくすことができるでしょう』って書いてあるだろ?」
どこから入手したのか、自国語に翻訳された隣国の医学書を大臣に手渡す店主。医学にもそれなりに精通している大臣は、その医学書から、治療の効果の是非はともかく、それなりの研究によってその治療法が確立されていることが読み取れた。
「なるほど、いわば、私に実験体になれってことだな?この治療に成功すれば、私のお墨付きで君らはもっと稼ぐことができるというわけだ」
「お。さすが大臣様。理解が早くて助かるよ。それで?…受けてくれるんだろ?」
少々悩んだ大臣だったが、結局、小銭入れから3オンスを取り出し、店主に支払った。この賢い店主が、自分に利がある状況でわざわざ危ない真似はしないだろうと思ったからだ。
「まいどあり。じゃ、早速、始めようか」
店主とその妹の手によって、治療は滞りなく進んだ。しかし、治療後、急激に気分が悪くなったので、大臣はやはりなにか危ないことに首を突っ込んでしまったのかと不安になってしまった。無論、そのことに気づかない店主ではない。
「しばらく様子を見てから、また来てくれよ。同じ場所にいるからさ。言っとくけど、俺だって効果が出た方が利益になるんだからな。むしろあんたが逃げないかの方が俺は心配だぜ」
笑いながら話す店主に、大臣はそれもそうだと思い直す。
ちょうどその時、これまで終始無言だった妹の方が「もう外は真っ暗ですよ」と呼び掛けてきたので、大臣は家に帰ることにした。家族が心配している姿が浮かんだのだ。
去り際、後ろを振り返ると、そこにもうテントはなかった。
やはり……という不安を拭うことができない大臣であった。
最初のコメントを投稿しよう!