『忘れられない忘れもの』

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 いつもと同じ時間、いつもと同じバス停で、いつもと同じバスに乗る。 プーッとバスのドアが開き、いつもと同じようにバスに乗り込み、いつもと同じ運転席の後ろにある高めに設えられた席に座る。いつものように、段差の端に置かれている小さく折り畳まれたメモを取る。 〝毛糸〟 その文字に座席の下を覗き込むと、紙袋の中に入った赤い毛糸が見えた。お母さん、編み物好きだものな、と思い、紙袋から抜き出した赤い毛糸をリュックの中に入れる。 「➖次は、愛幸(あいこう)総合病院前、愛幸総合病院前➖」 車内にアナウンスが流れ、通路側の手すりに取り付けられている降車ボタンを押す。 ポーン、という音がして、機械音が「次、止まります」と告げた。 まもなくバスは愛幸総合病院の前にゆるやかに停車した。  翌日、いつもと同じ時間、いつもと同じバス停で、いつもと同じバスに乗り、いつもと同じ運転席の後ろにある高めに設えられた席に座ると、いつものように小さく折り畳まれたメモが段差の端に置かれていた。メモを開くと、〝本〟の文字。座席の下を覗き込むと、いつもと同じ紙袋の中に、一冊の本が入っていた。お母さん、読書も好きだものな、と思い、紙袋から抜き出した本をリュックの中に入れる。  また次の日も、そのまた次の日も、いつもと同じ時間、いつもと同じバス停で、いつもと同じバスに乗り、いつもと同じ運転席の後ろにある高めに設えられた席に座ると、いつものように小さく折り畳まれたメモが段差の端に置かれており、座席の下にはいつもと同じ紙袋の中に、母の好きなものが何か入れられていた。 赤い毛糸に、本に、ペチュニアの小さな植木鉢に、クラシックのCDに、おはぎに、オルゴール。 きっと母は、窓辺にペチュニアの花を飾って、クラシックのCDを流しながら、赤い毛糸で手袋を編み、ゆっくりと本を読み、たまにおはぎでひと息ついて、そして幸せそうに、オルゴールの奏でる音に耳を傾けるのだろう。まるで、いつも通り、おうちでのんびりと暮らしているかのように。自分と、父と、兄の3人で、何気ないけどかけがえのない、毎日を過ごしているかのように。自分と、父と、兄の3人が、自分の家族であるかのように。 (お兄ちゃんも、会いに来ればいいのに……) 10個歳の離れた兄は、弟の僕の学費を稼ぐため、高校進学を諦め、16の時に家を出て、昼夜の見境もない、過酷な肉体労働を始めた。決してお給料も良いとは言えない、金額以上の働きを求められる、泥仕事。兄は寝る間も惜しみ、同じような仕事を掛け持ちした。兄は僕が生まれたすぐ後に病で夫を亡くし女手一つで僕たちを育ててくれた母に迷惑を掛けまいと、自分の生活は自分で見ると言って家を出、仕事先はおろか、引っ越し先の住所すら教えなかった。歳の離れた弟が母親から受けるべき愛情と待遇が、自分の存在で半減してしまうと思ったのだろうか。既に義務教育を終えて自立した存在である自分が誰かの保護下にあることに、罪悪や羞恥を感じたのだろうか。自分の生活ですら満足に送れてはいなかったはずなのに、兄は毎月、決して少なくはない額を僕ら家族に仕送りしてくれた。兄が居なくなったこととそれらの兄の献身が不運にも追い討ちをかけたのか、母は過労と心労で倒れてしまった。母は通行人によって病院に搬送されたものの、骨が皮膚に浮いて見えるほどガリガリに痩せ細っており、数週間意識が戻らなかった。そして意識が戻った時には、母は僕のことをすっかり忘れてしまっていた。母の入院で負債は膨れ上がり、兄はそのお金を稼ぐためにより一層働いた。借りていた部屋も捨て、ホームレス同然となった兄は、負い目を感じたのか、母の見舞いに来ようとはしなかった。一家の要となる人間が倒れたことで、まだ9歳だった僕は、兄が手を回してくれたのか、18歳までの子供達が衣食住を共にする児童施設に預けられた。衣食住は保障されたが、きっと莫大な費用が掛かっていたと思う。ただ、まだ子供で、到底何も出来なかった僕は、それに甘えるしか無かった。偽善的な環境から逃れるために、そしてただ僕を忘れてしまった母に会いたくて、毎日の殆どの時間、母の見舞いをしに、病院を訪れた。  「ユキトくん、学校は楽しい?」 母に聞かれて、僕は母を悲しませないように、幸せな日常の話をでっち上げた。 「ユキトくん、毎日お見舞いに来てくれてありがとうね。お父さんは会社だからなかなかお見舞いに来られないし、ミナトは反抗期なのか、お見舞いに来てくれないから、ユキトくんが会いに来てくれて、とっても嬉しいわ。」 母の中では渥美清はまだ生きていたし、ビートルズは絶頂期だった。母は自分の膨らんでいないお腹を撫でながら、幸せそうに微笑み、そして少し寂しそうにそう呟いた。母の時計は、僕が生まれる前の時間で止まっていた。 「この子に、何て名前を付けようかしら。」 僕は自分のお腹の中で丸まる僕を愛おしそうに撫でる母を、黙って見ていた。暖かい病室の窓の外で、ちらちらと雪が降っていた。 「あたたかくて、灯りがあって、幸せな、大切な名前➖そうだ、君と同じ、〝ユキト〟にしよう。きっと、君のようなやさしい子に、なってくれるわ。」 見えた母の想いに、思わず涙がこぼれた。 「どうしたの、」 母の手が、僕の頬に触れる。心配そうに僕を見つめる母に、ううん、と首を横に振る。 「お兄ちゃんにも、やってあげて。」 「お兄ちゃん?」 怪訝そうな表情を浮かべた母が、ややあって頷く。 「そうか、ミナトはユキトくんの一つ上だものね。うん、来てくれたら、おうちに帰ったら、ね。」 「僕が、連れて来るから。だから、ここにいて良いんだよ、って、抱きしめてあげて。」 「ユキトくんがミナトを連れて来るの?」 母が少しおかしそうに笑い、そしてとても嬉しそうに頷いた。 「でも、ミナトが来てくれたら、嬉しいわ。」  その日から僕は毎日、兄を探した。夕方の面会が終わる時刻から、翌朝の面会が始まるまでの時間、たった一人の兄を探して、寒い冬の中を、白い雪の中を、ただ必死に探した。  そしてとある夜。 灰汚れた道端で、僕はようやく兄を見つけた。ちょうど仕事が終わったところだったのか、ビニール袋を片手に一人で歩いていた兄に駆け寄る。 「お兄ちゃんっ!」 僕の声に、兄がすぐさま僕を見、途端に目を見開いた。 「ユキト!お前、いま何時だと思ってる!早く施設に帰れ!」 「嫌だよあんなとこ!ねえ、お兄ちゃんもお母さんのお見舞いに来てよ!お母さん、お兄ちゃんにすごく会いたがっているんだよ!」 「無理だ。俺のせいで、母さんは倒れたんだ。どの面下げて、会いに行けって言うんだよ。」 「お母さん、僕のことを忘れちゃったんだ!」 「はっ……?」 「お母さんはまだお父さんが生きていると思ってる。お兄ちゃんはまだ10歳で、最近は自分のお腹を撫でているんだ。〝この子に、何て名前を付けよう〟って。」 「だから、会いに来てよ!僕と、お母さんと、ずっと一緒にいてよ!」 「…お金が、足りないんだ。だから、行けない。」 そう言った兄の声に、咳の音が混ざった気がした。口に手をあてた兄が、わずかに目蓋を微動させる。 「お兄ちゃん……?」 不安になって咄嗟に兄の腕を引く。あまりにも軽やかに兄の口元から外れた手の平に、血が溜まっていた。 「お兄ちゃん!」 「…まだ仕事がある。とにかく先に帰ってろ。」 兄はそう言うと、僕の肩を押して歩き出した。しかしそれも数歩のことで、数メートル先で、兄はゴホッと咽せ込んだ。口から溢れた血が、兄の手から漏れ、真っ白な雪に落ちる。 「お兄……」 そう呼びかけた僕の声に、兄が大きく咽せる音が覆い被さる。お腹のあたりを掻き毟るように抑えていた兄が、大きく真っ赤な鮮血を吐き、そして、ゆっくりと倒れた。 「お兄ちゃん!!」 倒れ込んだ兄に駆け寄る。雪の上に倒れ込んだ兄は微動だにせず、眉一つ動かさなかった。ただ、兄の口から溢れた真っ赤な鮮血だけが、真白の雪の上に、無限に、無情に、広がっていく。 「お兄ちゃん!お兄ちゃん!!」 真っ白な雪を、真っ黒な空が覆うように塗り潰して行った。  透明のマスクを口元に当てがわれてベッドに横たわる兄を見る。あの日、兄が血を吐いて倒れたあと、幸いなことにすぐに男性がその場を通りかかったことで、兄は病院に緊急搬送された。あれから丸3日間兄は意識不明のままで、いまもベッドで静かに眠っている。いまは兄のそばを離れたくなくて、母には〝泊まりがけの遠足に行ってくる〟と嘘をついておいた。幸い母の経過は良好で、記憶さえ戻れば、すぐにでも退院出来ることが分かっていた。  兄が持っていたビニール袋の中には、いくつかの破れた紙切れとボールペンが一本だけ入っていて、破れた紙切れを裏返すと、〝毛糸(赤〟や〝書籍 一〟などという文字が印字されていた。兄が命を削ってまで僕ら家族に尽くしてくれていたことが、贈り物なんてどうでもよく思えるほどに、ひどく痛く、悲しかった。  と、衣擦れの音がして、兄がゆっくりと目を覚ました。 「お兄ちゃん」 そう呼ぶと、兄がゆっくりと目を動かし、僕を見た。 「……ユキト」 兄の目が覚めたことに、途轍もない安心感が包み、ただ無言で、膝の上にぽたぽたと涙を落とす。不器用に僕の頭を撫でてくれていた兄のガサガサの手が、ふと、止まった。目を手の甲でこすり兄を見ると、兄は天井を見上げ、それから部屋を見渡すと、目を見開き、口元のマスクを乱暴に外した。 「お兄ちゃん……?」 口元のマスクを外した兄は、布団を跳ね上げてベッドから降りると、どこかに行こうとする。 「どこ行くの、」 「…早く仕事に戻らないと。」 「何言ってるのっ」 歩いて行こうとする兄の身体を抑える。兄の身体は薄く、入院着越しに浮き出た骨が手にあたるのが感じられた。僕が少し押しただけで兄はよろめき、ベッドに手をついた。 「駄目だよ、こんな身体じゃ!お兄ちゃん、血を吐いて倒れたんだよ!」 「もう大丈夫だ。」 「駄目だよ!」 「大丈夫」 病室を出て行こうとする兄を押し留めていると、遂に兄が叫んだ。 「こんな治療されたって、払えないんだ!」 やり取りが外にまで聞こえていたのだろう、看護師さんが2人病室に入って来た。 「ミナトくんまだ動いちゃ駄目よ!安静にしていないと!」 「入院費を払えないんだ!母の分も!ユキトの学費も!」 「だから行かせてくれよ……!」 兄の叫び声が心臓に刺さる。看護師の一人が「鎮静剤を」ともう一人に囁き、「お金は大丈夫ですから、まずちゃんと休んでください」と兄に告げた。鎮静剤を入れた針が兄の肌に触れようとするその刹那、声が響いた。 「ミナト!」 病室の入り口に、母が立っていた。 「母さん」 ひとときの沈黙が病室を貫く。母は頬にひと粒だけ涙を落とすと、兄に駆け寄り、その身体を抱きしめた。 「倒れるまで……私達のために……」 「こんなに、痩せ細って……」 母が兄の肌を撫でる。浮き出た骨に触れられて、兄が少しだけ身体を震わせた。 「何でもっと自分を大事にしないの!」 母がそう叫び、「ごめんね…ごめんね……」と泣き崩れた。 「全部お医者さんに聞いたよ。」 「自分を犠牲にしてまで、過酷な生活を送ってまで、一生懸命頑張ってくれて、ありがとう……」 「でもお願いだから、もうこんな姿にはならないで」 「お金も、支援してくれる人が出来たから、とりあえずは大丈夫だから。」 「ユキトも、ごめんね。忘れて、ごめんね。酷いこと言って、ごめんね。嘘をつかせて、ごめんね。」 「毎日お見舞いに来てくれて、嘘をついてくれて、ミナトを連れて来てくれて、ありがとう。」 母が僕と兄を抱きしめる。母の涙に、大声を上げてしゃくり上げる。兄がようやく、ぼろぼろと、大粒の涙を静かに落とした。  泣き疲れて再び眠りに落ちた兄が横たわるベッドのそばに、母と2人並んで腰を下ろす。兄は心の底から安心したかのように、穏やかな表情で眠っていた。母が兄の手をやさしく取り、あかぎれの痛々しいその手にやさしくハンドクリームを塗った。 「ユキトも手、出して。」 「えっ、僕は大丈夫だよ。」 「これは予防でもあるの。それに、お兄ちゃんと手を繋いだ時、ガサガサの手より、しっとりしている方が、お兄ちゃんが安心出来るでしょう?」 「もしお兄ちゃんが寂しそうにしていたら、この手でお兄ちゃんの手を、やさしく握ってあげてね。」 「うん!」  その時、コンコン、と部屋の入り口横の壁を叩く音がして、開いていたドアの隙間から白衣を着た男性が顔を覗かせた。 「ミナトくんは、どうかな。」 「よく眠っています。やっと、安心出来たみたいで。➖起こしましょうか?」 母の問いに、男性が片手を出してそれを制す。 「誰にでも、安心して眠ることは必要なんです。彼はそれを長い間、この社会に奪われ続けた。自然に目が覚めるまで、ゆっくりと眠らせてあげなさい。」 「先生、私とミナトの入院費だけでなく、ユキトの学費まで手伝ってくださって、本当にありがとうございます。本当に、毎日の生活がやっとで……私が倒れたせいで、ミナトにはさらに無理を強いてこんなにまでさせてしまったし……返せるものなんて何も無いので……本当に、申し訳ないです……」 「私も、彼と同じでね。もう昔の話ですが、生活の為に身体に鞭打って働いた挙句倒れてしまったんですよ。幸い独り身なので諸経費を肩代わり出来るくらいのお金はありますし、といっても決して裕福ではないので普通の生活しか送らせてあげられないでしょうけれど、やさしくて素直で一生懸命なあなた達を見ていたら、到底、無視することなんて出来ません。」 男性が目を伏せる。 「必要としている人が医療を受けられないなんて、あってはならないんです。お金が無いことで当然享受すべき権利に差が生じてしまっては、いけないんです。」 「人は皆、幸せでなくてはならないんです。➖特に、子供たちは。」 男性が僕を見、それから兄に目を遣って、少し寂しそうに微笑んだ。 「少し喋りすぎてしまいました。彼が起きたら呼んでください。もう大丈夫だよということを、教えてあげなければなりません。」 窓の外でクリスマスツリーの装飾が雪にきらめき、頂点の星のまわりを、ソリにサンタクロースを乗せた2匹のトナカイが軽やかに舞い、夜空に上がって行った。
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