『忘れられない忘れもの2』

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『忘れられない忘れもの2』

 病室から嘔吐する音が聞こえた。開いたドアの隙間から、看護師さんに背中をさすられて、苦しそうに喘ぐ兄の顔が見えた。吐き出された吐瀉物が、ベッドの上に跨るように備え付けられた机の端から垂れ、床に落ちる。 「ごめんなさい…ごめんなさい……」 喘ぐ時に吐く息のわずかな間を縫って、兄が何度もその言葉を口にする。 そんな光景が、もう何日も繰り返された。  「…ミナトくん、何か食べられるようになった……?」 「…ううん。本人が好きだって言っていたものも、駄目で。柔らかいものも、液状のものも、何も……」 院内の廊下を歩いていると、ナースステーションの方から人目を憚るようにひそひそと話す声が聞こえた。身体を壁に寄せ、気付かれないようにそっとナースステーションを覗き込む。兄を担当してくれている看護師さんが俯き、顔を伏せていた。もう一人の看護師さんがその看護師さんの背中に手を添える。兄を担当してくれている看護師さんが言葉を詰まらせ、ぽとり、と涙を落とした。 「食べたがっているのに食べられないなんて……」 「食道アカラシアじゃないのに」 「あんな良い子がこんな……苦痛を背負わなきゃいけないなんて」 誰にも見つけてもらえずに無機質な空間に吸収されていく聲に、慟哭が堰を切ったように溢れ出した。 「それなのに、私は何も出来なくて」 「何かしてあげたいのに、何もしてあげられなくて」 「何も悪くないのに、ずっと、ごめんなさい、ごめんなさい、…って」 「彼は何も悪くないのに」 「私が、泣いたら駄目なのに」 ➖「大丈夫だから、謝らないで。ミナトくん、これは食べられそう?ハンバーグ、好物だったよね?」 看護師さんが箸で小さくハンバーグを切り分け、兄の口元に運ぶ。兄はそれを食べようと口を開き、ハンバーグを口に入れ、ゆっくりと咀嚼した。兄の喉元が上下するのを見て、看護師さんがほっとしたような表情を浮かべる。しかしそれも束の間のことで、兄は苦しそうな表情を浮かべると、口元を手で覆い、それを吐き出した。 「ごめんなさい…ごめんなさい……」 兄が涙を零しながら〝また〟そう口にする。 「大丈夫だよ。水、飲んでみようか。」 看護師さんが兄の背中をさすりながら、そう提案する。兄はグラスに入れられたストローを口で挟み水を飲もうとするが、吸い上げた水が口に到達するやいなや、またも咽せるようにそれを吐き出してしまった。 「うぇっ……」 机に倒れそうになった兄の身体を慌てて看護師さんが支える。兄の腕が当たり、水の入ったグラスが床に落下する。グラスが床でポーンと跳ね、床に水を散らした。 「…ごめんなsぃぅぇっ…ごめんなさい……」 「…はあっ……はあっ……」 「大丈夫、大丈夫」 看護師さんがそう言いながら兄の身体をゆっくりとベッドに横たえる。 「大丈夫だからね、ミナトくん。」 そう言う看護師さんの声に、わずかに水気が混ざった気がした。 「ちょっと休もうか。…焦らないで、ゆっくり、食べられるようになって行こうね。」 「➖俺もういいです。」 「…えっ?」 「食べられるようにならなくて、いいです。」 「でも食べなきゃ、力がつかないよ。」 「そんなに食べなくても身体は動いていたんで、働けていたんで、食べなくて大丈夫です。」 「そのせいで倒れたんじゃない!労力に対して食事量が不足していたから、身体に負担がかかって……」 「俺が食べなければ、その分が世界の貧しい人達の食糧になる。何より、誰にも貢献出来ない俺なんかが、食べていいわけがない。看護師さんみたいな、ちゃんと誰かのために頑張っている人が、食べるべきなんです。だからもう大丈夫です。」 「ミナトくん」 「➖俺が食べなければ、ユキトはいまの2倍、ごはんを食べられる。」 「➖このまま俺が消えてなくなった方が、世界のためになるんです。」 「ミナトくんっ!」 「俺なんかのためにここまで献身的に接してくれたのにごめんなさい。どうせ食べられないので、その分が無駄になってしまう。だから、もう大丈夫です。」 兄が柔らかく看護師さんに微笑む。看護師さんは一瞬ぎゅっと目を瞑ると、「替えのシーツや点滴を取ってくるから、少し休んでて。すぐ戻って来るから。」と兄に背を向け、僕の方に歩いて来た。隠れなきゃ、と隠れ場所を探す間もなく、看護師さんが病室のドアを開く。見つかった、と思ったが、看護師さんは後ろ手にドアを閉めると、僕に気付く様子もなく、目の前にあったトイレに駆け込んだ。一瞬のち、トイレから必死に抑え込んだような泣き声が聞こえる。その音から目を背けたくなり、そっと病室のドアを開ける。ベッドから降りた兄が、自分の吐瀉物を片付けようと床に落ちた黄土色のそれをティッシュで寄せ集めていた。サイドテーブルの上のビニール袋を取ろうと立ち上がった兄が、ふらっとよろめき、机に頭をぶつける。兄の身体が傾く。 「お兄ちゃんっ!」 咄嗟にドアを押し開け、病室に飛び込んでいた。必死に伸ばした腕の先で、兄の身体が床に打ち付けられる。僕に続くように部屋に飛び込んだ看護師さんが、床に倒れた兄に呼び掛ける。 「ミナトくん!ミナトくん!!」 看護師さんが兄の肩を叩く。目を閉じた兄は、呼び掛けに反応を示さない。看護師さんがPHSを操作し、兄の口元に透明のマスクを当てがった。 「ミナトくん聞こえる?ミナトくん!!」 後ろからバタバタと足音が聞こえ、白衣を着たお医者さんが数人、飛び込んで来た。慌ただしさと焦りの中で、お医者さんに紛れ、兄が見えなくなる。目の前の景色に、足が、頭が、視界が、震えた。 僕が……僕のせいで…… 「僕がいなくなれば良かったんだっ!」 そう叫び、病室を飛び出す。僕が、僕の存在が、兄を壊していた。兄を、苦しめていた。母も言っていたじゃないか。僕は、ユキトくんだと。ユキトじゃないと。母が夢に見ていたのは、自分と、父と、兄の、3人の暮らしだと。ああそうだ、僕が生まれなければ、兄はこんなにまで働く必要は無かった。好きなだけ、母の愛を、父の愛を、独り占め出来たのに。僕のせいで、兄は居場所を無くし、そしていまもどこにいればいいのか分からず彷徨い続けてしまっている。何が、「お母さんがよく作ってくれた、とろろ昆布のおむすびをお兄ちゃんにあげるんだ!」だ。僕は何も分かっていないじゃないか。兄はきっと、弟の僕があげようとした物なんて、迷惑なのに。優しい兄はきっと、笑顔で受け取ってくれるだろう。そして苦しみながらそれを齧って、咀嚼して、吐いて…………いや、吐きながら飲み込もうとするかもしれない。口の中に吐いたそれを必死に抑え込んで、飲み込んで、僕に笑いかけて…………。毒だ。僕は毒だ。兄を余計に苦しめる、兄を死に追いやる、毒だ。  気付けば最上階に駆け上がって来ていた。中と外を隔てる硬い扉を開ける。屋上の突き刺すような寒さがいまの僕には丁度良い。僕はこの棘を、針を、喜んで受け入れるべきなのだから。さあ、笑顔で。手すりから下を見下ろしてみる。あまりの寒さで空気が丸みを帯び、空と地面の境界が溶け合っているのか、階数の割に高くは感じなかった。高くは感じずとも、怖くないわけではない。もしここから飛び降りたら、どうなるだろうか。ふと、考えた。母は悲しんでくれるだろうし、兄もきっと、悲しんでくれるだろう。2人に迷惑を掛け、2人を悲しませ、2人を苦しめるだろう。自分が存在することで苦しめているのに、死んでも苦しめるなんて、生きているのも死んでいるのも駄目なら、どうすれば良いのだろうか。そう思うと、無性に兄のことが気になった。兄が大丈夫か、知らずには逝きたくない。病室に戻ろうと振り返ると、いつの間にか手に持っていたおむすびの包みを落としてしまっていたことに気が付いた。兄が倒れるのを見て動揺した時に落としてしまったのか、兄の病室から走り去ってしまった時に落としてしまったのか。とにかく、自分が兄にあげようと思っていたとろろ昆布のおむすびを、兄に見られたくなかった。見られてしまっては、まだ答えの出せていないこの感情に、無理矢理名前を付けられてしまう気がした。  走るように病室まで取って返すと、病室のドアは大きく開け放たれていた。壁に顔を沿わせるようにして、そっと病室を覗き込む。明るい日差しが差し込む病室の中、ベッドの上で、兄が上体を起こし、両手で挟むように掴んだ何かを、ゆっくりと口に運んでいた。薄緑がかった藁色の何かが、ほんのひと口ずつ兄の口の中に消える。ゆっくりと、兄が顎を動かす。 「ゆっくり、ゆっくり。」 やがて、顎の動きが終わる。静止。沈黙。 「…食べ、れた……?」 兄が瞬くように呟く。兄がまたそれを口に運ぶ。咀嚼。静止。沈黙。 「ミナトくん……!」 「食べ…れた……っ……」 看護師さんの嬉しそうな声と兄の声が、重なった。一瞬の空白を置いて、兄が、ぼろぼろと涙を零してしゃくり上げた。 「食べれたっ……食べれたっ……」 「やったね!ミナトくん!」 「おいしいっ……おいしいっ……」 「うん」 「看護師さん。まだ、食べていいですか。」 「もちろん。好きなだけ、食べていいよ。でも、焦らないで、ゆっくりね。」 「はい。➖でもこれだけは、大丈夫な気がするんです。」 「昔、母が、よく作ってくれたんです。」 おむすびを包んでいた笹の葉を綺麗に折り畳みながら、兄が口を開く。 「特別、好きというわけでもなくて。俺はハンバーグの方が好きだったんですけど、どこか➖懐かしい気がして」 「いまはハンバーグより、食べたくなる味です」 「➖看護師さん、これ、どうして?」 「さっき弟さんが、落として行ってしまったみたいで……」 「ユキトが?」 「ええ、多分。」 「ミナトくんが倒れた時、すごく心配そうにしていたのだけれど、病室を飛び出して行ってしまって。〝僕がいなくなれば良かったんだっ!〟って……」 「無断でミナトくんに渡すのも悪いと思ったけど、宛名が書いてあったから……」 「勝手に、ごめんね。でも、これなら、ミナトくんが食べられると思って。」 「いえ……ありがとうございます……」 何か考えるような表情を浮かべていた兄が、ハッとしたように目を見開き、勢いよく布団を捲った。 「ミナトくん駄目よ、急に動いちゃ!」 看護師さんが慌てて兄の身体を抑える。兄は看護師さんの制止を振り切ってベッドから降りて立ち上がると、ベッドの柵や壁に手をつきながら病室の入り口の方に向かって歩いて来ようとした。 「ミナトくんっ」 「ユキトっ…ユキトっ……!!」 不確かな足取りで、時々ふらつき倒れそうになりながら、病室の入り口まで歩いて来る兄に、逃げ出したい気持ちとここに留まりたい気持ちが煩雑に交差し、入り口横の壁に身を隠す。ドアから離れるようにしゃがみ込み、きゅっと手を握り締める。と、見えなくなった視界の外で、何かが頽れるような音が聞こえた。 「ミナトくんっ!」 「お兄ちゃんっ!」 看護師さんの声に思わず隠れていた壁から飛び出す。ドアのわずか手前で、兄が壁際にぶつかるようにして蹲っていた。瞬く間もないほど早く、兄と目が合った。 「…お…兄…ちゃん……」 惑いが続く言葉を見失わせる。向き合いを阻むような妙な羞恥心が、兄から微妙に視線をずらさせる。次の瞬間、考える間もなく、僕は物凄い力で兄に抱きしめられていた。 「…っユキトっ……!」 衰弱している兄の、筋肉が落ちた兄の、身体のどこにそんな力が残っていたのか。身体の表面には骨が浮き出ているのに、兄の腕からは、細さも薄さも微塵も感じなかった。屈み込んだ姿勢のままで、精一杯手を伸ばして、兄が僕を抱きしめる。 「ごめんな…ごめんな……」 「馬鹿なこと言って……」 「ずっと一緒にいるから……2人で…3人で…生きて行こうな……」 兄の細かい手の顫動がぬくもりと同時に伝わって来て、自分にさえも見つけられまいとうちに押し込めていたものが溢れ出す。 「うわあああああ!!!」 「よし、よし。」 しゃがみ込んだ兄の目線と僕の目線は同じくらいで、これまで遠くに感じていた兄を、それがようやく近くに感じさせた。兄は身体の表面に骨が浮き出ていて筋力も落ち体重も僕とさほど変わらなかったが、それでも身長180cmを超える兄の手は、とても大きかった。兄の大きな手が、僕の背中をやさしく撫でた。 「おむすび、持って来てくれて、ありがとう。」 ➖「ミナト、ユキト。夕ご飯、出来たわよ。」 「今日は2人が好きなとろろ昆布のおむすびとハンバーグよ。」 食卓に用意された料理を見て、兄の表情に一瞬不安の色が生じる。兄は隠すようにすぐに穏やかな表情を浮かべたが、母はその一瞬の色を見逃さず、兄に心配そうに尋ねた。 「ミナト、どうかした?」 「ううん、何でもないよ。ありがとう、母さん。」 兄が首を横に振り、笑顔で母にそう伝える。母が嬉しそうに僕と兄を見た。 「みんなでごはんを一緒に食べるの、久しぶりね。」 食卓につき、家族3人で揃って手を合わせる。 「「「いただきます」」」 ハンバーグを頬張りながらそっと兄の様子を伺うと、兄はまずグラスに入れられた水を口に含んだ。水すらも受け付けることの出来なかった兄を思い出す。兄は水を口に含むと、苦しそうな顔を見せず、グラスをテーブルに戻した。兄が母に気付かれまいと、小さく息を吐く。たったそれだけのことに、まず安堵する。兄は続いておむすびに手を伸ばした。唯一、兄が口に出来ていたもの。兄がおむすびを口に運ぶ。兄はおむすびをゆっくりと咀嚼し、またひと口、おむすびを口に運んだ。兄が自分の好物を変わらず食べられたことにほっとする。また兄が小さく息を吐いた。兄がハンバーグに箸を伸ばす。病院では、好物であるにもかかわらず、吐き出してしまったハンバーグ。必死に隠そうとしていたが、兄の手は震えていた。兄が箸でひと口サイズにハンバーグを切る。震える手に、緊張がひしひしと伝わって来る。僕のよりも小さく切り分けたハンバーグを、兄が口元に運ぶ。兄が口を開く。兄の口の中に、ハンバーグが消える。兄の口がゆっくりと動く。咀嚼。咀嚼。そして、静止。固唾を飲んで見守る。兄の口の動きが止まった。兄の目から、涙がひと粒こぼれ落ちた。 「お兄ちゃんっ!」 あの時の看護師さんの気持ちが蘇る。嬉しさが全身に沁み渡り、思わず兄を抱きしめる。兄がまた、ハンバーグを小さく切り分けて口に入れた。咀嚼、静止。兄は顔を歪めない。兄は、母のハンバーグを受け入れていた。 兄がぼろぼろと涙を落とした。 「あらあら、どうしたのミナト。」 ぼろぼろと涙を落とす兄に、母が兄の頬に手を伸ばした。 「お兄ちゃん、ごはんが食べられなかったんだ!自分が食べて良いわけがないって。自分が食べなければ僕が2倍食べられるって。水も、ハンバーグも、ごはんも、お味噌汁も吐いて、とろろのおむすびしか食べられなかったんだ!」 「ごめん…母さん…ユキト……」 「そうなの。良いのよ、ミナト。駄目だったら、吐いていいからね。吐きたくなったら、無理せず吐いていいんだから。少しずつ、食べられるようになれば、それで良いんだからね。」 「➖ありがとう、母さん」 ぼろぼろと泣きながら兄が母が作ったご飯を口に運んで行く。 「…おいしい……」 泣きながら次々と食べ物を口に運ぶ兄に、母がこの上なく幸せそうに微笑んだ。
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