『忘れられない忘れもの〜カスミソウ〜』

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『忘れられない忘れもの〜カスミソウ〜』

 「あのね、学校で…泊まりがけの遠足に行くの。だからしばらく、おか…おばさんのお見舞いには来れなくなっちゃうんだ。」 遠足に行くというのに、ユキトくんはいまにも泣き出しそうな表情をしていて、顔色は冴えなかった。遠足だと言うのに、何か心配事でもあるのだろうか。遠足といえば楽しいイメージだが、みんなで盛り上がるようなことが苦手で、遠足を楽しみと思えない子供がいてもおかしくはない。ユキトくんと接している限りでは、ユキトくんは優しくて明るい良い子だし、いじめにあっているとは思えないが、良い子のあまり妬まれるということも無くはない。本人は学校は楽しいと言っていたけれど、それが本当であるかどうかは本人にしか分からない。 「ユキトくん。遠足…楽しみ?」 不安になってついそう言葉に出してしまうと、ユキトくんが「うん、楽しみだよ。」と私に微笑んでくれた。その言葉に安堵しつつも、いつもとは違うユキトくんの笑顔が気にかかった。 「➖遠足の、…準備をしなきゃいけないんだ。…だからもう今日は帰るね。」 どうしようかと考えているうちにユキトくんが腰を浮かせる。 「あっ、うん。じゃあ…楽しんで来てね。」 そう言って良いのかは分からなかったが、何か悩み事があるようなユキトくんを他人の私が引き留めるわけにもいかず、手を振ってユキトくんを見送る。ユキトくんはやはり不安そうな表情を浮かべたまま、私に手を振り返して病室を出て行った。  読んでいた本を閉じ、ふぅ、と息を吐く。ベッドに背を預けて何とはなしに窓の外を見遣ると、中庭には大きな楠木が植えられていて、たくさんの装飾が施されていた。昼間のいまでこそ装飾は冴えないが、夜になって暗くなると、灯りが点され、きらきらと光り輝くのだろう。そういえば、もうじきクリスマスだ。そこでようやく、ユキトくんとの2日前の会話が脳裏に思い出された。 「(クリスマスなのに…遠足だなんて……)」 「しかも小学生が泊まりがけで……」 まるで夕方から夜にかけて徐々に暗くなっていく時のように、ただしそれも早送りの状態で、ポツポツと頭の中に違和感を示す灰色がかった膨らみが芽生え始める。その時、窓とは反対側、廊下からドア越しに女の子達の会話が聞こえて来た。 「今日は終業式だけだったから、早く終わったね。」 「うんっ。明日から冬休みだねー!」 「ハルちゃん、冬休みは何するの?」 「えっとね、クリスマスはママとパパとケーキ食べてサンタさんからプレゼントもらって、お正月はお餅つきをするの!」 「そうなんだ。楽しみだね!」 「うんっ!ヨナちゃんは?」 「私もクリスマスはハルちゃんみたいに家族で過ごして、年末からはおじいちゃんとおばあちゃんのおうちにお泊まりに行くんだっ」 「ヨナちゃんのところ、おじいちゃんとおばあちゃんのおうち、遠くにあるもんね。」 徐々に遠ざかっていく会話に、何か自分がとんでもない思い違いをしているような気がした。そうだ。この時期、小学生は終業式が終わって、冬休みに入っているはず。遠足なんて、ましてや泊まりがけの遠足なんて、あるはずがないのだ。そう気付いてしまうと終始不安そうな表情を浮かべていたユキトくんのことが気になった。ユキトくんが嘘をついたのは間違いないだろう。なぜ、ユキトくんは嘘をついたのか。私のお見舞いに来るのに嫌気がさしてしまったのか。それとも、私のお見舞いに来られなくなってしまうような事情でも出来たのだろうか。とにかくユキトくんに聞いてみようと思い、ベッドから降りる。幸い経過は良好で、適度な運動なら問題無いとお医者さんからは許可が下りていた。病室を抜け出し、院内の廊下を進む。ユキトくんはどこへ行っただろうか。ナースステーションで聞けば何か分かるかもしれない、とナースステーションへ向かうと、ナースステーションでは看護師さんが2人、何やらひそひそと言葉を交わしていた。 ➖「あの男の子…ひどく痩せていたけれど……食事はきちんと摂っているの?」 「ミナトくんですか?」 「ええ」 「➖まだ意識が戻っていないので、いまは点滴で……」 「ずっとそばにいる子は、弟さん?」 「はい。ユキトくん。」 「2人の親御さんは……?」 「お父さまはいらっしゃらなくて、お母さまのカスミさんもここに入院されていて」 「そうなのね……」 2人の会話が、一息に自分を覆っていた半透明の膜を剥いだ。お腹の➖ユキトを撫でた時に、あの子が言った言葉。 〝お兄ちゃんにも、やってあげて。〟 そうだ。ミナトは……ユキトは……。それなのに私は…私は…… 「私は……何てことを……」 手で顔を覆いその場に頽れるようにしゃがみ込む。渥美清もビートルズももうこの世にはいないのに。目の前の子供たちを、見てあげるべきだったのに。私は目の前の子供たちを、ちゃんと見てあげていなかった。大切な、大切な、私の宝物なのに。どんな人情浪漫溢れる名作より、どんな憧れのスーパースターより、大切な存在なのに。その時、廊下を慟哭のような叫び声が貫いた。 「こんな治療されたって、払えないんだ!」 その声に、看護師さん達が慌てたように廊下を駆けていく。顔を上げ、立ち上がる。その後ろ姿を見失わないように、看護師さん達を追いかける。 後悔も懺悔も無くすことなんて出来ないのなら、もうそれは構わない。それなら、それらを寄せ集めて、せめて、子供達をこの両腕いっぱいで、精一杯の愛で、抱きしめてあげなければいけない。
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