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 旧校舎の南側。二階と三階をつなぐ階段の踊り場に大きな鏡がある。  誰もいなくなった夜の校舎でその鏡の前に立つと、ある筈のない「忘れ物」がそこに映し出されるという。  四角い窓から夕陽が射す渡り廊下で、相田友紀はそんな話を思い出していた。  随分と昔に誰かに聞いた、いわゆる「学校の怖い話」のひとつだ。  そんなありふれた怪談話ひとつで、あの頃の友紀達は簡単に友人らと盛り上がることが出来た。  能天気な中学生だった。  教壇に立つ今、友紀はそれを強く実感するようになった。  何故なら、教師という立場から接する今の生徒達には、オカルトにうつつを抜かしている様な暇があるように見えないからだ。  彼らが晒されている環境は、あの頃の自分達のように単純ではない。友紀が受け持つ小さな教室の中にも、大人達の社会と同じように、いやむしろずっと残酷な形で問題は内在している。  経済格差、ルッキズム。それに基づくスクールカースト。SNS上で行われる、大人たちには可視化されない人格攻撃の数々。  年齢的にはまだ子供の範疇にあるはずの彼らの学び舎は、もはや子供じみた怪談に興じていられるほどお気楽な社会ではなかった。  世間に満ちる冷笑じみた雰囲気は、この年頃の子供達の間にも色濃く漂っている。  自分がセーラー服の袖に腕を通していた頃とは違う。一度教師という肩書きを得て校門をくぐった友紀は、そこがいかに魔境であるかを如実に知らされてしまっていた。 「……よいしょ」  誰もいない廊下で、友紀は小さく声をかけた。両手で抱えていた資料の束がすこし斜めに傾いてしまっている。肩を揺すらせ、そのズレをなんとか修正しようとした。  左手の薬指につけるべき婚約指輪は、学校にいる間だけは外していた。生徒達は教師の身の回りに起きた小さな変化にもめざとい。  色恋沙汰となれば尚更だ。  騒がれるのは好ましくなかった。  好奇心旺盛な生徒達は、こういう時になるとスクラムを組んで質問攻めにしてくる。  友紀は職場で自分の個人情報はたとえ僅かでも晒したくなかった。子供達の口に戸を立てることはできないからだ。  彼らは驚くほど無遠慮に、そして無警戒に全世界に向けて情報を発信してしまう。  婚約した事実を知られるのは避けたかった。生徒達のみならず、友紀は上司である学年主任にもその事を話していない。  学生の頃から九年間交際した恋人の亮二から指輪を渡されたのはつい先月の事だった。  珍しく休みの重なったあくる日の夕方、友紀のアパートで何をするでもなく寛いでいた時に、亮二はどこか緊張したような面持ちで小さな箱をポケットから取り出した。  もうそろそろ、と思い始めてから既に随分と時が過ぎてしまっていたせいか、改めてそれを目の前にした友紀は存外に驚いていた。 「うちの事情は……以前にも話した通りなんだけど」  眉尻をハの字の形に下げ、どこか申し訳なさそうな表情で亮二はプロポーズの言葉を口にした。 「もし僕と結婚したら、友紀にも店の運営に入ってもらわないといけない。……学校の仕事は続けられなくなる。それも含めて、僕はこの指輪を友紀に受け取ってもらいたいと思う。ゆっくり、考えて欲しい」  指輪を差し出す亮二の手のひらからは、ほのかに醤油の甘い匂いが漂っていた。  老舗の佃煮屋の次男坊として生まれた亮二が、大学卒業後に就いた教職を離れて実家を手伝い出してからもう四年。身体を壊した長兄に代わって跡継ぎとなる事を選んだ亮二と籍を入れるのは、佃煮屋の女将として生きる将来を選ぶ事を意味していた。  今どき随分と古臭い価値観であるような気もするが、それが亮二の両親が提示するたった一つの結婚の条件なのだという。  実家の事情に恋人の仕事や人生を巻き込まなければならない事実に葛藤した亮二の迷いと苦しみが、九年という二人の長い交際期間の一つの理由でもあった。  友紀は少しだけ逡巡した後、その指輪を受け取ることにした。  亮二の両親との関係は悪くない。佃煮屋の仕事に不安が無いといえば嘘になるが、亮二が共にいるのなら乗り越えていけるだろう。  正直な所を言えば、この亮二の申し出は友紀にとって渡りに舟でもあった。  教師を辞めたい。  そう考えるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。  とうの昔に情熱は失っていたのだと思う。  毎月百時間を超える残業。些細な事で学校に怒鳴り込んでくる保護者達への対応。手放しで愛する事など出来はしない生徒達。  友紀はもう、疲れ果てていた。  実家の都合で教師を辞めざるを得なかった亮二の手前、自ら言葉にして吐き出す事は無かったが、内に秘めた感情は既に薄らと伝わっていたのかもしれない。  どうして教師になろうと思ったんだっけ。  そう考える事が増えた。理由を思い出す事は出来なかった。  友紀は教師を辞める事を決めた。  この学校で働くのは、年度末までだ。  引き継ぎに必要な資料をまとめていて、今日は随分と遅くなってしまった。  日中は騒がしい校舎の中も、生徒達が帰宅してしまえば静寂で満たされる。  それでも何となく人の気配があるような気がしてしまうのは何故だろうか。  十年、二十年。それ以上の長い時をかけて、何千人にもなる数の生徒がこの校舎で生き、通り過ぎて行った。その記憶は少しずつ重なって積もり、堆い層を作っている。  きっとその累積が、この何とも言えない気配を醸しているのだろう。  自分の今の感情も、きっと時と共にその層の一部になっていく。  あと数ヶ月でここを離れる。  その未来を目前にして、友紀は少しだけ感慨深い思いを抱きながら廊下を歩いていた。
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