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②
右足が、階段の一段目にかかる。
ここを昇った先の踊り場には大きな鏡があった。
「そこには、あるはずのない『忘れ物』が写るんだって」
声を潜めるようにしてそう教えてくれたのは誰だっただろうか。
中学生の頃、仲良くしていた相手には違いない。けれど、その顔も名前もうまく思い出すことができないのだ。
その時だった。
誰もいないと思っていた校舎の中から、誰かの声が聞こえてきた。
「気持ちワリィんだよ、お前」
女子生徒の声だった。
強い語気で誰かを責めているようである。
声に気付いた友紀は、腕に資料を抱えたままその場所に立ち止まった。
下手に踏み込みたくなかったからだ。
生徒達のややこしい人間関係に首を突っ込んで、面倒な仕事を増やしたくはない。
その声は友紀が昇る階段の先、上階の方から聞こえていた。
気付かれない内に、引き返そう。
足音を立てないよう階段を降りようとした時、続けて声が聞こえた。
「おい、聞いてんのかよ」
「黙ってないでなんとか言えよ、溝呂木」
一対多。一人の生徒を、数人が取り囲むようにして攻撃しているようだった。
イジメ、だろうか。
今時珍しいな、と友紀は感じていた。
近頃は、生徒達もあまり目立つやり方で鬱憤を晴らさないようになっている。
攻撃の手段は主にSNSだ。
こうして直接的な行動に出る事は少ない。
溝呂木、という名の生徒がその標的になっている様だった。
珍しい苗字だ。
そんな生徒がいただろうか。
けれど、どこか聞き覚えはある。
「……や、やめて」
か細く震える声が聞こえてきた。
ドンっ、と肩をつく様な音。
きゃっ、と小さな悲鳴があがる。
それを追いかける様に嘲笑が響く。
間違いない。これはイジメだ。
割り入って止めるべきだろうか。
だが、それが問題の根本的解決に繋がらない事は、この九年間の教師生活で既に思い知らされている。
残り数ヶ月もすればここからいなくなる自分がここで無理やり介入することが、今後溝呂木という名の生徒の周りに良い影響を及ぼすようには思えない。
とりあえず、偶然に通りかかったテイで近寄り、声をかけてみよう。
それでこの場が収まれば御の字だ。
ごほん、とわざとらしく咳払いをしながら友紀は階段をゆっくりと昇った。
近付く友紀の気配を察して、見るに明らかなイジメ行為を彼女達が止めてくれれば、大きく騒ぎ立てずに済むからだ。
踊り場が近付く。
声の主が近くにいる気配がする。
しかし、友紀の目は彼女達の姿を捉えることができなかった。
踊り場にも、上階にも人の姿は無い。
「オドオドしてんなよ、おい!」
それなのに声だけがはっきりと聞こえる。
友紀が階段を昇ってきた気配はあちらにも伝わっているだろうに、その怒声が鳴り止む事はない。
友紀は困惑しながら周りを見渡した。
いない。
どこにも、誰もいない。
いつのまにか陽も沈み、校舎の中には薄暗闇が満ち始めていた。
蛍光灯のスイッチを入れなければ。
手探りで壁際に触れようとした友紀は、ある異変に気が付いた。
階段の踊り場の辺りに、薄ぼんやりと輝く何かがある。
あの大きな鏡から、光が漏れているのだ。
友紀は導かれるようにしてゆっくりと大鏡の前に歩を進めていた。
そこには反転した世界が広がっている。
けれど、明らかな違和感があった。
鏡に写る世界の窓からは、オレンジ色の夕陽が射している。
とっくに辺りは暗くなっているというのに、鏡の中でだけは未だに夕陽が沈んでいないようだった。
「嘘……」
そう呟き、友紀は鏡の表面に手を触れた。
それはひんやりと冷たく、つるりと滑らかだった。
これはただの鏡だ。その筈だ。
「あるはずのない……忘れ物が映る」
いつか聞いた事のある怪談の文言を、友紀は無意識に繰り返していた。
そして、ある事に気が付いた。
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