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③
聞こえていた女生徒達の声が、鏡の中から発せられている。先程、見回した時には存在していなかった筈の人影が、そこに映り込んでいた。
制服を着崩した三人の女生徒が、一人を取り囲む様にして立っている。
踊り場にへたり込んでいる少女の黒髪はひどい癖毛で、目元まで深く覆われていた。その髪を一人の女生徒が鷲掴みにする。前髪を強く引っ張られて顔を吊られた少女の瞳が黒く濡れていた。
友紀は、その少女の顔に見覚えがあった。
この学校の生徒だ。
けれど、友紀の生徒ではない。
思い出されるのは中学生だった自分に対して俯き気に話しかけてくる少女の瞳だ。
溝呂木由佳。
それが彼女の名前だった。
教室の中では目立たない方のグループに属していた友紀に対し、由佳はある日突然に話しかけてきた。しかし、彼女に取っては突然の話では無かったのだろう。
仲間内のオカルト話でよく盛り上がっていたからだろうか。
彼女はこの学校にまつわる怪談をびっしりとノートにまとめて、それを友紀に見せてきた。きっと友達になりたかったのだ。
踊り場の鏡にまつわる怪談を教えてくれたのも由佳だった。
そうだ。
なぜ忘れていたのだろう。
暗い目をしたその少女はあの頃の溝呂木由佳で、その周りを取り囲んでいるのはかつてのクラスメイトだった。成人式や同窓会でも何度か顔を合わせた記憶がある。
その鏡に映し出されているのは、おそらく全て過去に起きた出来事だった。
陰気で友人もいなかった由佳は、友紀の知らないところでこうやって誰かの鬱憤をぶつけられていたのだろう。
今さら、ここにいる友紀に出来る事は何もない。
目の前で行われる非道な仕打ちを、友紀はいたたまれない面持ちで見つめていた。
その時、鏡の中の階段に人影が立った。
誰かが上階に現れたのだ。
由佳の暗い瞳に光が宿った様に見えた。
助けが来た、と感じたのだろう。
(お願い……溝呂木さんを助けてあげて)
友紀は、夕陽の逆光で顔が良く見えないその少女に向けて強く願った。
あんな理不尽が許されていいわけがない。
溝呂木由佳は何も悪い事なんてしていないのに。
「おい……なんだよ、お前」
現れた少女の影に気付いた一人の女生徒が、声にドスを効かせて凄ませる。
「あ、わ、私は……」
その声に怯えた少女はまごつき、そして幾許もしない間にそこを立ち去ってしまった。
「ま、待って……」
由佳の声が、か細く聞こえた。
その瞳が、再度絶望に暗く染まっていくのが見えた。
「助けてよ……相田さん」
溝呂木由佳は、立ち去ってしまった少女の名前を呼びながら涙を流していた。
相田友紀。
それは、イジメの現場を目撃しながら逃げ出してしまった自分自身の姿だった。
「逃げられたよ」
「ああ、いいよ。どうせ、何もしやしないんだから」
女生徒達は逃げ出した友紀の事を鼻で笑いながら、由佳の肩を足蹴にしていた。
その通りだった。
あの日、友紀は目の前で行われていた行為がただ恐ろしくなり、逃げる事しか出来なかった。その事実を誰かに言うでもなく、何かアクションを起こすでもなく、ただイジメに巻き込まれない様に、由佳と距離を取った。
由佳が助けを求めている事は分かっていたのに。由佳と親しくしていたのはクラスで自分一人だけなのも知っていたのに。
あれからしばらくして、溝呂木由佳は学校に来なくなかった。
人知れず転校した由佳の姿は卒業アルバムに載ることもなく、いつしか友紀は彼女という存在ごと頭の中から消してしまっていた。
そう、忘れていたのだ。
その鏡に映し出された出来事は、あの日友紀が置き去りにした「忘れ物」だった。
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