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 踏み出そうとした右足が、グンッと何かに引っ張られた。  その衝撃で踊り場に激しく転倒する。  抱えていた資料が宙に舞った。  強く膝を打ち付け、苦悶の声を漏らす。  ジンジンという痛みの他に、鈍く足首を締め付ける様な感触があった。  友紀は足元に視線をやった。  思わず息を飲んだ。  腕だった。  薄暗闇の中で白く浮かび上がる細腕が、友紀の足首を掴んでいる。  その腕は、鏡の方から伸びていた。  叫び声を上げようとした友紀の口に、ゴワゴワとした何かが押し込まれる。 「がっ……ぐえっ……」  それは喉の奥まで侵入し、友紀の呼吸を阻んでいた。苦しさに涙を流しながら、なんとか口の中から引っ張り出す。  唾液で濡れたそれは、髪の毛だった。  ひどい癖毛の、黒い髪。  しゅるしゅるしゅる、と何かが這う様な音がした。その瞬間、友紀は四肢の自由を失った。首、手首、足首。ありとあらゆる関節の動きを制限する様に、長い黒髪が友紀の身体に纏わりついている。 「な、なにっ! なんなのっ!?」  友紀は半狂乱になりながら叫んだ。  這いずるように踠く。  けれど、前に進むことはできない。  身体は強く引っ張られていた。  あの大きな鏡の方へ。  おそるおそる振り返り、鏡を見る。  そこには、一人の人影があった。  真っ白な二本の腕は友紀の足首をしっかりと掴んでいる。  振り翳した癖毛の長い黒髪は、まるでそれぞれが意志を持っているように蠢いていた。  溝呂木由佳だった。  先程、鏡の中でイジメられていたひ弱な少女が、血走った眼で友紀を睨みつけていた。 「……てよ……助けてよ……」  ボソボソと喋る声の調子は、あの頃のままだ。しかし、その眼差しは異なる。  明らかに憎しみを孕んだ由佳の手が、ギリギリと友紀の足首を絞り上げだ。  友紀はたまらず絶叫する。 「あああああああっ!」 「なんで助けてくれないの……どうして話してくれないの……ねぇ、相田さん」  どこからか由佳の声が聞こえた。  その間もズルズルと身体が引きずられる。  やがて、友紀のつま先が大鏡に触れた。  まるで重たい液体の中に誘い込まれるように、とぷん、という音を立てて友紀の下半身が徐々に鏡の中へと引き込まれていく。 「ごめん……溝呂木さん、ごめんっ! あの時、本当は助けたかったの! でも、どうしても怖くて出来なかったの! お願い、許して……もう、離してよぉっ!」  友紀は叫んだ。  耳元でクスクスと笑う声が聞こえていた。  それは、友紀が一度も聞いた事のなかった溝呂木由佳の笑い声だった。  徐々に身体が鏡の中に沈んでいく。  脚から腰、胴体から首まで引き摺り込まれた時、不意に笑い声が止んだ。  そしてただ一言、低い声が聞こえた。 「逃すわけねえだろ」  ザッ、と強く身体が引かれた。  静寂が戻った大鏡の前の踊り場には、友紀が抱えていた資料の紙束だけが散らばっていた。
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