0人が本棚に入れています
本棚に追加
私は今朝も、誰よりも早く学校へと登校する。
一人で自習する場所が欲しかった
静まり返った広い教室を独占するのは、何か特別な存在になったかのように感じられて、ささやかな私の優越感を満たしてくれた。
単に一人で自習する場所が欲しかっただけだが、どの生徒よりも早く一番に登校することで、教師からは真面目で熱心な生徒として見られ、成績の内申にも有利になることで、私はこれを毎日続けていた。
しかしたまに先客か居ることもあり、私の機嫌を損ねることもあった。その人物は学年トップの佐藤君。
まれに私より早く来て、教室で一人、勉強しているときがある。
彼は品行方正で成績優秀。おまけに運動神経もあり、容姿も整っており男女問わず人気者。
教師からの評判もいい、絵に描いたような優等生。そんな完璧な彼の存在が、私にとっては目障りだった。
基本、私は誰ともつるまず一人でいる。しかし社交的で明るい彼の周りは、いつも人で溢れてる。そこが彼と私の違い。
私よりも遊び呆けているのに、何故か私よりも成績が良いというのが腹が立つ。
友達と仲良くなってどうするの?そんな人間、近い将来、なんの意味も持たなく、いつの間にか消えていなくなっているというのに。
そんな人間関係など大切にするより私は、良い成績を積み、良い大学に入り、一流企業に就職する。そして将来、安泰の生活を手に入れる。そのために私は寒い日だろうと早起きをし、学校へと向かうのだった。
今日も私は、人も疎らな通学路を歩き、一番に正門をくぐり、誰にも触れられていない廊下に足音を響かせながら教室へと向かう。
そう、誰もいないはずの校舎。
しかし……
廊下の奥の角で、人らしき影が横切っていったのが、目に入った。
私以外の生徒か職員なら、別に不思議ではない。だけど、その姿が明らかに、腰の曲がった年寄りに見えたから、一瞬自分の目を疑う。
そんな学校の関係者なんて、聞いたことない。
認知症の老人か誰かが、迷い込んだのかしら?
そう考えて、私はそのまま無視して教室に向かおうとしたが、もし何らかの事件に発展し警察沙汰にでもなり、その日の朝に私が登校していたとなったら、後々面倒なことになりそうだったので、仕方なしにその年寄りの後を追うことにした。
そのまま廊下を突き進み角を曲がる。私の足でも、歩行速度の遅い老人に追い付くのは簡単で、案外直ぐに見つけることが出来た。
その老人、白髪頭の茶色いカーディガンを羽織った、品の良さそうな老婆は、私の隣のクラス2年3組の教室にちょうど入っていくところだった。
私は外から少しの間、様子をうかがう。
老婆は中央の席に歩みより、何をするわけでもなく、机を擦りながら佇んでいるだけだった。
私はタイミングを見計らって教室内へ入ると、
「どなたですか? ここでなにをしてるんですか?」
と問い詰める。
「あら~」
老婆は振り向き、惚けたような口調で、無邪気な子どものように微笑みながら言う。
「見っかっちゃったのね」
「は? 」
「ごめんなさいね。私ね、忘れモノを取りに来たのよ?」
「忘れ物、ですか?」
こんな老人が朝から学校に忘れ物?
もしかしてボケているのでは?
……とも思ったが、その言葉遣いや身のこなし、目の輝きからは、そのようなものは見受けられなかった。
「今日は帰るとしますか~」
「ちゃんと帰れますか?」
「大丈夫よ、ありがとう。貴女は、こちらの学生さん?」
「そうですが?」
「そう…… 貴女も忘れモノ、しないようにお気を付けなさい」
顔に刻み込まれたシワを更にしわくちゃにして笑って見せながら、そのシワよりも深く、暗い声で忠告してきた。
は?
一体なんなの?
何様のつもり?
迷い込んできた年寄りのくせに、偉そうに。
老婆はそう言い残し、私を置いて教室を出ていった。
私も直ぐに廊下に出るが、不思議とあの老婆の姿は、見渡しても見えなくなっていた。
朝から気味悪い、そして腹立たしい言動を聞かされて、非常に気分が悪い。
気を取り直し自分の教室へ行き、自席につき荷物を整理する。
そんなところに、更に追い討ちをかけるかのように、佐藤君が教室へとやって来てしまう。
「あれ?おはよう。今日も一番乗りなんだね」
馴れ馴れしく、挨拶なんかしてくる。
「おはよう。ねえ、来るとき、廊下で老人見なかった?」
「え?廊下で?見てないけど?どうしたの?」
「別に……見てないならいいわ」
「珍しく声をかけてくれたかと思ったら、そんな変なこと聞いてきて」
そう言って明るく声を出して笑う。
変なことを聞いてしまったと、我ながら恥ずかしくなる。
これでは、私がボケてるみたいじゃないの。
結局、その日のことは、何も無かったかのように過ぎ去り、私もそんな些細なことはすっかり忘れていってしまった。
それからというもの、私は毎日毎日勉強に明け暮れていた。
ただ好成績を収めるために、
良い大学に進学したいがために。
佐藤君、負けたくないために……
不思議な老婆のことなど、目まぐるしい変化する日々に押し流され忘却していった。
私は、とにかく誰かに負けたくなくて、常に見えないなにかと競うように生きていた。
無事に高校もトップの成績で卒業し、一流大学に入学卒業し、無事に一流企業へ就職する。
職場では、やればやるほど成績が上がり、評価もうなぎ登り。
入社して間も無くして、ある企画に携わるグループの一員に抜擢され、そこで大きな評価を得ることに成功する。その後に今度はある一つの企画のリーダーを任されて、それも大成功。それを機に上司からも、周りからも認められる存在へとかけ登る。
仕事に打ち込めば打ち込むほど、成果を出し評価される。そして出世する。するとまた大きな権限を手に入れる。
このプラスのサイクルが楽しくて仕方なかった。私は時が過ぎるのも忘れて、ただひたすら仕事に打ち込んだ。
どんどん信頼され、頼りにされ、大きなプロジェクトを任せられ。
仕事は充実していた。
しかしある日、振り返ってみると、私の後ろには、なにも無いことに気が付いた。
権限も経歴も業績も信頼も、それは職場に限られた中での話。
いつか仕事を辞めれば、それは全て消えてなくなる儚いもの。
私の私生活は常に独りだった。
友人は一人もいない。
学生生活は常に勉学に励み、友人などは足を引っ張る邪魔物か、もしくは自分を脅かすライバルとしか見ていなかった。
親しくもない同級生の『私たち結婚しました』という風の便りが届くたびに、そんなもの!と悔し紛れの悪態をついてきたが、その報告もこの年齢になると、まったく届かなくなる。
一人風邪をひき寝込んだ夜、あの心細さと孤独感。毛布の中で、このまま独りで死んでいくのかという恐怖と絶望感に、身体を震わせた。
そして退職し、大量の資金が手元に残るが、逆に言えば、その時の私にはお金しかなかった。
金では買えないものがあることを実感し、そしてそれが私の手からこぼれ落ちていったということも痛感した。
そのことに気が付いた時は、既に手遅れだった。
そして私は80歳を越えた。
肉親は既に他界。数少ない知り合いも既に他界。
友達なんかいない、同僚も覚えていない。生きているのかすらも分からない。
部下も上司も、退職してからは一切関わってない。
身体の機能は衰え、私の持つ全ての能力が消え去っていき、残るは一つの命のみ。
独り寒空の下、公園のベンチに座る。
今はただ、長すぎた人生を早く終わらせたい一心で。
目の前では、これから冬休みの入ろうとする学生たちがはしゃいでいる。
この先、自分の身に起こることなど、なにもしらないかのように。
教えて上げたい。
こんな人生を歩まないように。
もっと大切なものが、周りにはあるということを……
その時、私の脳裏の奥深くから消え去られていた、かつての記憶が呼び戻される。
学生の時、あの時、学校へ朝一で登校した時のことを。
見知らぬ老婆が校内に徘徊し、そして私に告げたこと……
ー忘れモノ、しないようにー
この事だったの?
あの人も、何らかの事情で青春時代を送れなかったあの人も、それを取り戻すかのように校舎に忍び込む。そして既に無いはずのものを探し求めて去って行く。
今の私には痛いほどその気持ちが理解できた。
そう……あの人は私に忠告を。
なのに、それなのに私は……
なんて愚かだったのかしら……
気が付くと私は深夜、母校の校舎へと忍び込んでいた。
校舎はあの頃とは別に新しく建て替えられたものだったが、あの頃の記憶を辿り、似たような位置に存在する教室の、同じような間取りの席へと腰を下ろしていた。
月明かりのみ差し込む真っ暗な教室で、私はこのまま死んでも良いと思いながら、昔を偲び目の前の机を撫でていた。
「あら、貴女?」
誰もいないはずの教室で声がすると横を振り向くと、あの日あの時に出逢った老婆が月明かりによって、浮かび上がっていた。
「貴女も来ちゃったのね」
「ごめんなさい。あの時、あなたに教えてくれたのに。忘れモノをしないようにと……
なのに私は、あなたの忠告に耳を傾けようとしなかった。蔑み馬鹿にして……」
周りともっと仲良くすればよかった。
もっと友達を作ればよかった。
遊びに行けばよかった。
彼氏を作って、いろんな楽しいことをして過ごせばよかった。
こんな私に話しかけてくれた佐藤君に、もっと仲良くしてれば……
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
私の人生、一体なんだったのだろう。
取り返しのつかない、大切なものを忘れてきてしまった。
自然と目頭から雫が流れ落ちていく。
とうの昔に枯れ果てたと思っていた涙が、止めどなく溢れる。
取り返しのつかない人生。
もう手に入れることの出来ない失ったもの。
(どうしたんじゃ?)
(そうか……この子も)
(かわいそうに……)
(なんとかしてやりたいのぅ)
私の回りに集まる声。
しわくちゃになった顔を上げると、教室内はいつの間にか大勢の人が。
年老いたの老人ばかりでなく、中にはまだ10代のあどけなさを顔に残す旧帝国陸軍の軍服をまとった青年姿も見られれば、モンペ姿のおさげの少女まで。
私も彼らと一緒。
青春を置き去りにしてきてしまったものたちの末路。
しかし私は、自らそれを手放した自業自得の愚かな極み。
(なあ、この子だけでも、なんとかしてやれねーかな)
(そうね、私たちはもう構わないけど)
(俺たちの力を合わせれば、この子だけはなんとかなるかもしれん)
私は後悔と申し訳なさで泣き続け、いつの間にか泣き疲れて気を失っていった……
「……大丈夫?ねえ起きて」
「ぅっ……」
若い男の子の声?
泣き疲れて寝落ちしていた?
私はゆっくりと目を覚ます。
「大丈夫?」
教室内は既に朝日で満たされ、白く包まれている。
どうやら一晩寝過ごして、朝一番に登校した学生に見つけられたようだ。
なんて惨めな老婆なのかしら。
本当の理由も言えるはずもない。
「ごめんなさい、探し物をしていて……」
「さがしもの?」
男の子は首をかしげる。
その声、顔……
見覚えがある。
学生時代の佐藤君。
似たような子がいるものだと思いつつ、早くこの場を抜け出さなくては、警察沙汰になってしまう。
呆け老人扱いされて、施設へ預けられてしまう。
私は涙を手で拭こうと顔にあてる。
……が?
自分の枯れ木のように骨と皮の乾燥した手が、みずみずしく張りのある艶やかな白く細い手に?
目の前では掌を裏表にし、何度も指を閉じたり開いたりする。
紛れもなく私の意思で動く手。
そしてその袖。
黒い上着の袖に白い3本の線。
これって、私の高校時代の制服?
視線を下げると、ふくよかな張りのある胸に赤いスカーフが目に入る。
頭を撫でれば、禿げ上がったみすぼらしい頭ではなく、黒光りする光沢のある長い髪。
頬は弾力あるもち肌。
「こ、ここは、どこ?」
「どうしたの? 夢でも見てたの?」
私はあの日に戻っていた。
学校で老婆と出逢った日の朝に!?
もう一度、やり直しても、いいの……ですか?
あの日の夜に集まった人影は、青春時代になにかを忘れてきてしまった人達なの?
みんなの力で私だけ?
理解が追い付かない私は、机を手で撫でる。
そこの中央には、なにか鋭利なもので刻まれた、真新しい文字が掘られてあった。
『探し物は見つかりましたか?
もう失くさないでくださいね』
あぁ、ありがとう……ございます。
「あの、探してる物ってなに? 手伝おうか?」
「ううん、もう大丈夫。見つかったから」
忘れ物、ここに、あったから……
最初のコメントを投稿しよう!