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「忘れものですよ」
背後から声が聞こえた。何か落としたのだろうか、そう思って振り向く。電柱の影、街灯はあるのにどうしても薄暗くなってしまうような位置にその人はいた。髪は長くうつむいていて顔は見えない。
「忘れものですよ」
もう一度声が聞こえる。やっぱりこの人が話しかけてきているようだ。けれど、その人は何を差し出すでも指し示すでもなく、ただ声をかけてきているだけのようだ。
「えっと、何がですか?」
「忘れものですよ」
質問してみても変わらない。それに不気味さを覚えて後ずさる。いや家は向こう側だ。こんな時間に遠回りして帰るか、それともこの人の前を突っ切って帰るか。そもそもこの人に背を向けて帰ることができるのか。自分にその度胸があるのか。遠回りして帰る道を脳内検索する。あの道は街灯が少ない、あの道は遠すぎる。一つ決めて動き始める。
その人から目を逸らさず、じりじりと動いていく。脇道に入る、と同時に走り始める。早く帰りたい。どうして今日はこんな時間になってしまったんだろう。
「忘れものですよ」
すぐ真横から声が聞こえる。どうして。驚いて足が止まってしまう。数歩進んでしまった位置で止まって、振り向くことができない。確かに、真横から聞こえた。もちろんさっきの場所に戻ったわけじゃない。家には反対方向から近づくための道の途中だ。同じ人であるわけがない。けれど、同じ声に聞こえた。大きい声ではない。聞き取りやすいとも思えない。けれど聞き間違えたという感じはしない。
「忘れものですよ」
また聞こえる。こちらの反応などお構いなしで、ただ一定時間ごとに音を発する機械のように。けれどそんなもの、誰がつくる、誰が置く。例えばこちらを怖がらせて楽しむような人がいたとしても、こんな時間、通る人がいるかどうかもわからないのに見ているなんてこともないだろう。
止めてしまった足をもう一度動かし始めるのは大変だ、けれどもうその声を聞きたくない。また走り出す。もう遠回りはしない。
走って走って、家にたどり着く。鍵は走りながら鞄を探ってつかんでいた。ドアを開けて慌てて入って、勢いよく閉める。少し近所迷惑になってしまったかもしれないなどと思うけれど、自分の恐怖心はどうしようもなかった。近所に心の中で謝りつつ息を吐く。
「忘れものですよ」
決して大きくはない声がリビングから聞こえた。
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