遠くの隣人

1/7
35人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

遠くの隣人

 今朝、松岡は体の異変で目覚めた。喉が痛い。しかも、いがらっぽいのだ。  寝る前の一服がマズかったんだろうか…… と、眉を顰めた彼の脳裏に【禁煙】の二文字が頭をかすめたけれど、即座にそれを打ち消した。本数は決して多くない。毎食後と就寝前の4本しか吸わないのだから。しかし、こちらへ来る前は殆ど喫煙しなかったので(妻の前で遠慮していた)この1年で肺と喉にダメージを与えたんだろう…… と、反省した彼は、朝食後の一服を我慢して診察室へと向かった。  午前9時少し前。  自宅と続きになっている診療所で、いつもと違う顔が出迎えた。 「今日一日よろしくお願いします」  あと少しで70歳になる その女性は、成瀬のピンチヒッター。実は前任の看護師で、不在の彼の代わりとして呼ばれたのである。  松岡は彼女と面識があった。一度だけ患者として受診し、その時経歴を知った。第一印象は【良くしゃべる おばさん】で、聞きもしないのに当時の苦労話や成瀬へのダメ出しをマシンガンさながらにまくし立て、彼女が帰ったあと成瀬と顔を見合わせて苦笑した。  成瀬曰く「悪い人じゃないんです。むしろ良い人すぎて、新米の頃は熱心に指導してもらいました」 「まだまだ現役でバリバリやれそうだけど、どうして退職したの?」 「家族の介護で忙しくなったと聞いています。でも、その御舅さんも他界されて今は畑仕事に精を出しているとか。もし、僕が急用で欠勤することがあったら町田さんに来てもらって下さい。彼女、診療所に20年務めた大ベテランなんです」  いやいや、俺は君の方が数百倍もいい。元気がいいおばちゃんは苦手だ――― そう心の中で呟く松岡だったが、数か月後それが現実となった。  親戚の慶事で一泊二日しなくてはならなくなったと聞いた時、松岡は年甲斐もなく『淋しい』と感じた。そして、それが顔に出た為、成瀬は恐縮しながら事情を説明した。 「F市で結婚式があって。泊りがけじゃないと無理なんです」 「そっか。で、どうやって行くの?」 「車で最寄りの駅まで行って、それから列車です」 「誰かに送ってもらうの?」 「大家さんに」 「僕が送ってあげるのに」 「診療所はどうするんです?」と突っ込まれて うな垂れた松岡が「せっかくだから ゆっくりしてきたらいい」と、心にもないことを口走ったら、「一応一泊の予定ですが、延びるようなことがあれば その時はよろしくお願いします」と、悲しくなることを言い残して旅立ってしまい――― 今、彼の代役が主の様な顔をして室内を動き回るのであった。  彼女は診療時間前の清掃を行っていたが、それは年末の大掃除さながらの気合の入れようで、家から持参したバケツと雑巾で待合室の隅々を拭き上げた。 「そろそろ診察が始まるので、適当なところで切り上げてください」と、言ったにもかかわらず、彼女は手を動かしながら こんな愚痴をこぼす。 「男の人って駄目よね。見えないところの掃除が行き届いていないんだから。『掃除はちゃんとしてくださいね』って、あんなに頼んだのに全然守られてない」  そして「もうそろそろ」と、再三の声かけにも無視して 「窓の桟なんて、こ~んなに汚れちゃって。あんなの、歯ブラシを使えば簡単に落ちるのに。先生、成瀬さんに言っといてくださいな。私が掃除したってことを」 「まあ、少しは綺麗になったかしら」と、満足げな表情をした彼女は、今度は隅にある花台を指差すと、 「綺麗な花でしょう? あれ、うちの庭に咲いていたのを今朝摘んで活けたんです。花って気分を明るくするから、私がいた頃は毎日飾ってたんですけど、成瀬さんは そんなことせんでしょう?」 「花はご近所の方が持ってきてくれます。さすがに、毎日ではないですが」 「私が辞めて飾る人がいなくなったから見かねたのね。成瀬さん、毎日水替えしているかしら?」 「しているようですよ」 「水替えって、ただ水を入れるだけじゃダメなんです。切り口を花バサミでカットして吸い上げを良くしてやんなきゃ長持ちしない。それから……」と蘊蓄を垂れ始めた時、最初の受診者がやって来た。すると、【地獄で仏】【渡りに船】とばかりに、松岡はその患者を歓迎したのであった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!