遠くの隣人

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ーーー 一緒にいるだけで疲れる  午前の診療がひと段落するや否や、松岡が椅子の背もたれに身を預けて溜息を漏らした。  7年のブランクを感じさせない仕事ぶりには感心するが、ほとんどの村人と顔見知りの彼女は とにかく私語が多い。患者が来るたび「今日限定で復帰したの!」と宣言し、互いの近況報告を始めるので診察室に呼ぶまでに時間がかかる。そして、診察中 横でごちゃごちゃ言うので身が入らず、体の不調と共に苛立ちを覚えた松岡は一服するために立ち上がる。が、咳と痰のからみが増悪しているため吸うのを諦め、休憩室でコーヒーを淹れ始めた。  あと半日の辛抱だ。彼女に余計なことを言ってへそを曲げられたら午後の診察に差し障るし、次回頼みづらくなる。つまり、成瀬に迷惑をかけることになるので何事も穏便に…… と、自身に言い聞かせ、受付で事務処理をしている町田に声を掛けた。 「コーヒーが入ったので休みませんか?」 「先生が直々に淹れてくださるなんて」と感激した町田は、松岡からマグカップを受け取ると一口啜って「美味しい」。そして――― 「成瀬さんもこうやって先生に淹れさせるんですか」 「淹れさせるって、そんな……」  しかし、彼女の言い方に棘があるのは成瀬に対する羨望だということを午前中の診療で気づいた松岡は抗議するのを留まった。  診療所に訪れた村人は、成瀬が休んでいることに一様に落胆するそぶりを見せていた。そして、この診療所の古参の一日限定復帰を喜ぶものの、二言目には「ひかる先生はいつ戻って来るのか?」と尋ねてくる。  この七年間で すっかり村人の信頼を得て診療所の運営を担っている成瀬の存在と自分の居場所がすでにないことを悟った彼女は、少し開けた窓から差し込む春の陽光に瞳を眇めながらポツリと呟いた。 「成瀬さん、村の人たちと上手くやっているようですね」 「ええ。新米の僕のフォローもよくしてくれます」 「あの人、東京の大きな病院の師長を務めてたらしいですよ。知ってました?」 「それは初耳だ」 「だから、上からものを言って反感を買うんじゃないかって心配していたんですけど」 「嬉しい誤算でしたね」 「どこかの大学の研究所とも繋がりがあって、年に数回そこの偉い先生を招いて講演会を開いたりしてるんです。この前は、今流行りの予防医学の話でした」 「来月は僕が講演することになってるんで、是非聞きに来てください」 「成瀬さんがここへ来てから診療所のあり方が私の頃とは変わってきたように思います。もう70歳のおばあちゃんの出る幕なんてありません」 「いやいや。20年近くこの診療所に携わっていらした町田さんは村人の健康状態を誰よりも把握してらっしゃる。だから、今後ともよろしく頼みます」 「先生はお世辞がうまい」 「この口で世の中渡ってきましたから」 「コミュニケーションが上手いのはドクターにとって武器ですよ。そういえば、さっき成瀬さんからメールが届きました。『大丈夫ですか?』って聞かれたんで『私が何年ここに勤めてきたと思ってんの』と返しておきました」 「心強い返信だ。ところで……」そう言うと、松岡は成瀬本人に聞けなかったことを尋ねる。 「彼、親戚の結婚式に出席するって言ってましたけど誰なんでしょうね」 「甥っ子さんですよ」 「おいっこ!?」 「お姉さんの息子さん」  予想外の返答に松岡はたじろいだ。
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