遠くの隣人

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 今から三十数年前、研修医時代の赴任先で成瀬の姉と出会った。彼女とは結婚の約束を交わすほどの仲だったが、実家の旅館経営の立て直しのため、別の女性との結婚を余儀なくされた(そして、それを恨んだ成瀬が復讐の為に近づいてきたのだが、図らずも彼とも恋仲になった)。  その彼女が結婚したことは成瀬の口から知らされていたが、その後に生まれた子どもなら歳は二十才そこそこといったところだろうか…… 「それが、甥っ子さんっていうのが旦那の連れ子なんですよ。だから、成瀬さんのお姉さんは後添で、お子さんはその一人だけなんだそうです」 「そ、そうなんだ」 「歳は二十七~八で、年に一度遊びに来ていましたね」 「ここにですか?」 「『リフレッシュするため』って、紹介してもらったとき話してました。血の繋がりがないのに仲が良くて、どことなく雰囲気も似ていましたっけ」  三十数年間、思い出の中にうずもれていた かつての恋人の存在が急に色づき始めて、松岡の胸がざわつく。  どういう経緯で子どものいる男性と結ばれたのかは知らないけれど、彼女は他人の子を育て上げ、一人前の男性として巣立ちさせた。その めでたい席に参列する成瀬の祝福の笑顔が瞼の裏に浮かび上がってくるが、松岡は少々悲しい気持ちになっていた。 ――― 彼女の子どもを【親戚】と言って曖昧にされた  そりゃあ、俺なんかに彼らの慶事を教える筋合いがないのは わかっちゃいるが、今でも厄介な存在に変わりがないことを思い知らされた松岡は すっかり しょげかえるのだった。  夕方の五時に診療を終えた松岡は、いつもとは違った疲れを感じながら家路に就いた。  人には相性というものがあり、やはり町田をパートナーにするのは無理だとわかった今、成瀬が恋しくてたまらない。    元々女性が好きだし、寛容にもなれるのだが、自己主張と自己肯定感が半端ない彼女と仕事するのはストレス以外の何物でもなかった。他にスタッフがいれば逃げ道になるけれど、四六時中顔を突き合わせなければならないのは苦行か罰ゲームのレベル。あの成瀬が傍にいてくれるからこそ自分は診療所で仕事に励むことが出来るし、村の暮らしに耐えられるんだ――― そう悟った松岡は彼の帰宅を心待ちにした。  今日は土曜。家に帰ってもお手伝いの津原はおらず(彼女は週休二日制なのだ)、自分で食事を作らなければ何にもありつけないのだが、疲労と体調不良でやる気がでない松岡は買い置きで詰まった冷蔵庫を一瞥したあと、食卓椅子にどっと腰掛けた。  仕事中は気にならなかった咳や痰のからみが悪化して悪寒も出てくる。これはもう煙草の吸い過ぎじゃなくて風邪、それも気管支炎の一歩手前だと診断した松岡は年齢による抵抗力の低下を実感していた。  大学卒業後、医師として働き出してからは風邪らしい風邪をひいたことがなかった。『ひき始めた』と感じることはあっても、治療を待つ患者がいるので気合で乗り切ってきた。あっぱれ、俺のアドレナリン――― と、自身の強靭な体を称えたのは過去のこと。寒気がするので体温計で測ると37.6℃で、ますます食事を作る気が失せた松岡は熱めのシャワーを浴びて布団に潜り込んだ。  患者には滋養のある物、それも身体を内側から温める作用を持つ食材や水分を採るよう促しているのに、自分のことになるぞんざいになり、冷えた体を丸めて嵐が過ぎ去るのをひたすら待つ。肩のあたりには元妻が送ってくれた羽毛のガウンを掛けているが、暖かさを期待するには役不足。この村の寒さは覚悟していたけれど想像以上で、暖房をつけっぱなしで寝ても足元の寒さはいかんともしがたい。  そういえば――― と思い出したのは、実家の冬の光景だった。  そこもここと似たような環境で、冬は常時ストーブが焚かれ、その上に薬缶やアルミホイルに包まれたサツマイモが乗っていた。朝は氷点下まで下がり、霜や水たまりに張った氷を踏みながら登校し、足にはしもやけが出来ていた。中学卒業後は家を出て、以後実家で暮らすことはなかったけれど、あの頃は電気毛布と重たい布団を頭まで被って寝ていたな――― と、幼い頃の記憶を紐解いた松岡は、今度通販で電気毛布を注文してみようか…… と、ぼんやり考えながら眠りの淵に落ちたのだった。
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