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翌日――― 布団の中でダラダラ過ごしていた松岡はトイレの限界がきて身を起こした。
相変わらず咳と痰の絡みは持続中で、薬を飲んで寝れば良かったと後悔しても後の祭り。ふらつく体で用を足しながら、水分と栄養補給、そして解熱鎮痛剤&去痰剤の使用を…… と、ぼんやり考えた彼は、台所で頂き物のスッポンスープの封を切った。これは兄嫁からのお歳暮で、離婚と退職、僻地での生活を心配した彼女が『なにか精がつくものを』と送ってくれた。その1缶1000円という高級品を鍋に入れ、冷ご飯も投入してグツグツ煮込めば、鼻をくすぐる匂いと共に雑炊が出来上がった。
『義姉さんのお心遣いに感謝します』と、心の中で手を合わせて鍋から直接スプーンですくおうとした時である。スマホの呼び出し音が鳴り出して『こんな時、誰なんだ?』と、画面を見たら口元が綻んだ。相手は成瀬で、二日間顔を合わせなかっただけなのに懐かしくて急いでタップする。
『もしもし、成瀬です。今、大丈夫ですか?』
全然OK。声聞きたかったよ――― と、心の中で叫びながら「今どこにいるの?」と尋ねれば『帰りの列車に乗るところです』
『明日はいつも通り出勤します。休みの間、ご迷惑をおかけしました』
「結婚式、どうだった?」
『人生の門出に立ち会うのは清々しい気分になりますね。ところで、そちらはどうでした? 何か変わったことは?』
「町田さんが頑張ってくれたおかげで支障なかったよ。でも、あの人 せわしい人だね。僕はちょっと苦手だな」
『昨日、彼女にメールしたんですが、先生、風邪をひいてるんですって?』
それを聞いた松岡は大層驚いた。たしかに「咳払いばっかりして」と眉を顰められたけれど、まさか成瀬に告げ口するなんて……
『「仕事中、気になった」と言ってましたけど、大丈夫なんですか?』
昨晩は21時には床に入り12時間ほど寝ていたせいか、ピークは過ぎている。熱は測っていないけれど食欲はあるので、今日一日安静にしていれば何とかなるだろう…… と、思っていたが悪知恵が働いた。
「それが、家に帰って熱が出てね。今まで寝てた」
『大丈夫なんですか? 津原さんには来てもらってるんですか?』
「休日だから呼んでない」
『薬は?』
「飲んでない」
『どうして?』と、受話口で責める成瀬に「何も食べてないから。今から食事を摂ってそれからね」そう言いつつ口角を上げる。
松岡の魂胆はこうだった。自分の具合の悪いことをアピールすれば、仕事以外で関わろうとしない(恐らく避けている)彼の同情を買うことができるかもしれない。そして あわよくば、帰りに寄ってくれるかも……
案の定、しばしの沈黙の後
『今から列車に乗ったら18時にはそっちへ着くので、先生の所へ寄っていいですか?』
「申し訳ないからいいよ」
『夕食、何か買ってきますよ』
「大丈夫だって」
『とりあえず行くだけ行きます。先生、面倒かもしれませんが水分はちゃんと摂って下さいね』
スマホを置いた松岡の顔はしばらく脂下がっていた。状態を悪く言って心配させたことに良心が咎めるが、彼との距離を詰めるためには致し方ない。
そう、彼は一番身近にいる他人なのに距離がなかなか縮まらない。意識的に一定の距離を保とうとし、こちらから踏み込もうとするや否や身をひるがえす。ただ、彼の言動や行動から嫌悪まではされておらず、百戦錬磨の恋愛上級者の勘だと風向きが変われば何とかなるんじゃないかという根拠のない自信があったので、今回の【企て】を契機に振り向かせたい。
ここへ来て早一年。来た当初は、仕事や環境に慣れるので精いっぱいだったけれど、ようやく慣れてきた昨今、人恋しくてしょうがない。それは、目の前にかつての恋人――― 昔の面影を残しつつ洗練された大人に成長した男が手の届くところにいるためで、松岡は彼が来る夕方まで何度も時計の針をみながら過ごすのだった。
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