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時計の針が十八時を刺す頃。ようやくインタフォンの鳴る音が聞こえた。
ようやくお出ましだ――― と、元恋人の到着を布団の中で待ちわびていた松岡は、はやる気持ちを抑えながら身を起し、ガウンを羽織るや否や玄関へ急ぐ。
彼が自宅を訪ねてくれるなんて始めてのことだった。一年近く一緒にいるのに診療所以外で会ったことがなく、歴代のドクターらはどうだったのか、お手伝いの津原に尋ねたところ「前の先生とは、たまに清流釣りに行っていましたよ」そう言われ、肩を落としたばかりである。
俺なんて釣りどころか食事すらシカトされている。だから、今夜こそは――― と、勇み立った彼が玄関の引き戸を開けた その時、目の前の来客を見てポカンとなった。
――― 成瀬…… くん?
前髪を後ろに流してセットし、一目見ただけで仕立ての良さがわかるコートの下にスーツをビシッと着こなす姿はまるで別人。しかし、目尻の下がった瞳も、まっすぐに通った鼻梁も薄めの唇も どれも同じ。手にはキャリーバッグとキオスクの紙袋を抱えていて、自宅へは戻らず直接こっちへ寄ってくれたようだった。
「具合、どうですか?」
「えっと…… 君から連絡があったあと、飯食って薬を飲んで寝たら大分良くなった。咳と痰は出るけど気分は悪くないから明日は大丈夫」
「無理しなくていいんですよ」
「いや、ほんと。熱も下がったみたいだし」
「何度です?」
「測っていないけど、感じでわかる」
成瀬の美丈夫ぶりに見惚れていた松岡は、玄関先で立ち話していたことに気づき、慌てて中に入るよう勧める。「おじゃまします」そう言って脱いだ革靴も良質なもので、朽ち果てそうなボロアパートに住んでいた頃の彼しか知らない松岡は会わなかった月日の長さを身をもって知ったのだった。
リビングに着いた成瀬は、物珍しそうにあたりを見回した。そして、テーブルに置きっぱなしの汚れた食器と薬の残骸を見下ろしたあと、持参した紙袋を椅子の上に置いた。
「すみません、向こうで駅弁買ってきました。喉に通るかどうか分かりませんが良かったら……」
「駅弁? そりゃいいね。でも、四つも買ってきちゃって…… どうして?」
「どれがいいか決められなくて。俺、一つ持って帰っていいですか?」
「いいも何も。成瀬君、夕飯は?」
「二日酔いで全然腹が空いてません」
「久しぶりのお酒だったんじゃない?」
「昨晩からずっと飲みっぱなしなんです。それが…… 」と言いながら、片手をテーブルにもたせかけて体を支える。
「昨日の夜、両家の食事会があって俺も誘われたんです。そしたら、新婦のお姉さんが東京で管理栄養士をしていて一緒の病院で働いていたことがわかったんです」
【俺】という、いつもと違う言い方に松岡は目を見張った。彼はこれまで自分のことを【僕】と言っていたのに、この砕けた話し方は……
――― もしかして、酔いが残っている?
「自分は面識がなかったんですが、あちらが覚えていて。そうしたら、向こうのご両親が急に気さくになって酒を何度も注ぎにきて、今日の披露宴でも散々飲まされて。列車の中で吐きゃしないか気が気じゃなかったです」
「そんな大変な最中、僕に電話をくれたんだ」
「先生には『月曜日に帰って来れないかも』と言ってたんで、返事しとかないとマズいと思って」
「弁当まで買わせて悪かった」
「冷蔵庫にあるもので何か作れたらいいんですけど、もう へべれけで」
「とんでもない。せっかく来てくれたんだから一緒に食べない? 一人だと寂しくて」
しばし考える素振りを見せた成瀬を見て『今日も振られるのか』と、肩を落としかけた松岡だったが「じゃあ、そうしましょうか」そう言いながら紙袋から弁当を並べだしたのを見て、心の中でガッツポーズをした。どうやら、彼は久しぶりの飲酒のため警戒レベルが下がっているようで⋅⋅⋅⋅⋅⋅。その横顔を眺めながら、松岡は二十年前に戻ったような錯覚を起こすのだった。
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