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「先生って肉が好きだったでしょう? だから、和牛ステーキ丼、特選ロースかつ弁当、かしわめしを買ってきました。あとそれから…… うな重も」
「これ、【○○名物かしわめし】じゃない」と言って、一番リーズナブルな折詰を手に取り喜ぶ松岡。
「懐かしい。これ、うまいんだよね。昔、学会でF市に行った時には必ず買って帰ったよ」
「それ、自分が食べようと思って……」
「じゃあ、シェアしない? 他のもみんな」
この言葉を聞いて眉を顰める成瀬に『調子に乗り過ぎた』と、臍を噛む松岡だったが
「俺、そんなに入りません」
どうやら彼は自分の腹具合を心配していたようで、思わず笑いが込み上げてくる。ああ、彼は俺の好物を覚えてくれていた――― と、自分のデータが彼の頭にインプットされたままであることに無上の喜びを感じた松岡は、病身であるのを忘れて極上の緑茶を入れてやろうと玉露の茶筒に手を伸ばした。
「俺がやるから座ってて下さい」と恐縮する成瀬を制すると、今度は弁当を分け始める。さっきまで「入らないかも」と渋っていた成瀬も、てんこ盛りになっていく皿をまんざらでもない表情で見つめている。『君はもう ずっと酔っぱらっていた方がいいよ』と心の中で突っ込んだ松岡は「じゃあ食べようか」と手を合わせた。
「先生の言う通りだ。チンした方が旨い」
「だろう?」
「それに、このウナギ。周りがカリッとしているのに中がホクホクで。二日酔いなのに全然いけますね」
そう言いながら黙々と箸を動かす成瀬を満足げに見つめていた松岡だったが
「箸の持ち方がちゃんとなっている。昔はほら、変な持ち方してたじゃない? あれから直したんだ」
すると、それまで動いていた成瀬の手がピタリと止まった。
「人から指摘されて矯正したんです」
「えっ、誰から?」
その問いかけに躊躇する成瀬だったが
「同僚から。「親の顔が見てみたい」なんて言われたからカチンときて一週間で直しました」
「きついこと言う人だね」と言ったあとでハッとなる。もしかして、その同僚と言うのは成瀬の恋人だったんじゃないだろうか……
「手が不自由なら仕方ないけれど、そうでないのに おかしな持ち方をしていたら恥ずかしいと気がついて。いくら身なりに気を使うようになっても、そんな所でマイナス評価になるのも損ですしね」
「二十年ぶりに再会したら、君が洗練された大人になっていたのは、そういった努力の賜物だったんだな」
松岡が嫉妬を見え隠れさせながら言うと、成瀬は口元に笑みを浮かべた。
「俺…… 先生と別れた後、ステップアップに燃えたんです。無頓着だった衣食住に金をかける様になって、キャリアアップのために多様な経験ができる大規模病院へ再就職して。十代の頃、引き籠りだった自分が先生と出会えたことで生きる意味を知ったんです。だから、先生に感謝しています」
向き合って食事をするのも夢の様なのに、こんな話まで聞ける(例えリップサービスでも)と思わなかった松岡は、元恋人の少し はにかんだ顔を見つめながら嬉しい反面、複雑な心境になっていた。
二十年前の失恋が向上心を高めさせ、心から愛する人との出会いのきっかけになったことは良かったけれど、自分とのことを過去形で語って欲しくない。こうして再会を果たした今、新たな時を一緒に刻みたかった。彼が自分の人生に彩りを添える存在に、自分が彼の支えとなるのが望み。なので、松岡は策を講じることにした。彼の良心に訴える卑怯なやり方だけれど……
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