遠くの隣人

7/7
前へ
/8ページ
次へ
 二人で四人前の駅弁を食べつくしたあと、帰ろうとする成瀬の気配を察した松岡は「君に話しておきたいことがある」と、相談を持ちかけた。 「僕もこうして歳を取ると、いつ何時何が起こるかわからない。今回の風邪みたいに大したことじゃなければいいけれど、突然の病気だったり事故だったりするかもしれない」  いきなり松岡が自分の将来の不安を語り始めたので、成瀬は眼を見開き、真剣に耳を傾けた。 「そんなことになったら頼るのは実家か息子になるんだが、どちらもここから遠い場所にいて すぐに駆けつけることが出来ない。なので、申し訳ないが君の助けが必要になると思う。彼らが来るまで、それを引き受けてはくれまいか?」  すると、成瀬が躊躇なく頷き「もちろん そのつもりです」 「でも、世話になるのに先立つものがなくっちゃね。だから、現金やキャッシュカード類の保管場所を教えておくよ。僕の寝室の洋箪笥の中に金庫があって……」  そこまで言うと、成瀬が「待ってください!」と遮った。 「そんな大事なこと、俺なんかに教えないでください。金なら心配しなくても」  しかし、松岡は言葉を続ける。 「君のことを信頼しているから話すんだ。もちろん、息子にも言っておく。自分が駆けつけるまで父親を任せるんだから文句はないはず。いや、あっても言わせない。で、金庫の暗証番号なんだけど、君の誕生日にしておいたから忘れることはないだろう」 「そんな……」と絶句する成瀬に なおも畳み掛ける。 「中を開けると、通帳とキャッシュカード、印鑑、健康保険書、保険証券、遺言公正証書が入っている。キャッシュカードの暗証番号は君の昔の電話番号下4桁。これを作ったのが丁度付き合い始めた頃で、へそくり用に開設したんだ。君と行った旅行費もここから引き出したんだよ」  そう言って昔を懐かしんで笑みを零したが、成瀬の表情は強張ったままだ。 「ごめん。気が重いかもしれないけれど、頼れるのは君しかいない。だから、宜しく頼む」 「……」 「通帳はね、たいした額が入っていないから拍子抜けするよ。離婚の時に財産分与を放棄して慰謝料も払ってスッカラカンになったから。あと、遺言公正証書に挟んである名刺は懇意にしている弁護士で高校の同級生なんだ。親身になって相談に乗ってくれる奴だから安心して任せられる」  すると、しばらく無言だった成瀬が震える声音でこう尋ねた。 「そんなこと、どうして俺に話すんです?」 「息子は僕の不慮の事態なんて真剣に考えちゃいないから半分しか聞いていないだろう。だから君に託すんだ」 「俺は先生の信用に値する人間じゃない」 「頼られて気が重い?」 「気が重いというか辛いんです。こうして、もしものことを言われるのが」 「負担をかけるようなことを言って悪かった。じゃあ…… 今のは無かったことにしても」 「今更そんな……!」と、責める様に声を荒げた成瀬は 「俺、引き受けます。引き受けさせてください。だけど…… そんなことにならないよう気をつけてください。お願いします」  そう言って伏せられた その顔は半泣きだった。そして、まばたきした瞬間に何かが零れ落ちた様な気がした松岡はハッと息を飲んだ。 ――― もしかして、泣いてる?  まさかそんなこと…… と、それを確認するため目を凝らしたけれど、成瀬は「すっかり長居してしまいました」と逃げるように席を立ち、玄関で靴を履き終え振り返った時には何ごともなかったような顔になっていた。 「でも先生、僕が先に逝ってしまった場合はどうするんです?」 「それは想定していなかったな」 「その時は別の人に頼んでくださいよ。あの世では言いつけを守ることが出来ないんで」  成瀬は冗談めかしてそう言うとキャリーバックを持った反対の手で玄関の引き戸をピシャリと締め、松岡は置いてきぼりを食らった子供の様に立ち尽くした。 ――― 膠着状態を何とかしたくて打った手だったが、これで良かったんだろうか  吉と出るか凶と出るかは成瀬次第。自分の投げた一石が波紋を生み、それが彼の気持ちに何らかの変化が起こることを期待するのであった。 ――― end このあと、番外編に続きます。 成瀬視点です。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

35人が本棚に入れています
本棚に追加