上天に哭く

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上天に哭く

【遠くの隣人】の番外編です ◆◆◆◆◆  松岡の自宅を逃げるように後にした成瀬は、重たいキャリーを引きずりながら夜道を歩く。  晴れた夜空には、クリーム色の光を放つ満月が道端に咲く菜の花を照らしているが、成瀬の瞳はスレートグレイの地面だけ捉えていた。  歩きながら、松岡の前でこらえていた涙がひとつ、ふたつ。しかし、拭いても拭いても あとから零れるので、終いには放っておいた。  どうしてこんなに感傷的になるのか分からない。恐らく、二日間飲み続けた酒のせいで感情の起伏が変になっているんだろう。  だとしても、松岡の不測の事態を聞かされたくらいで まるで余命宣告をされたように悲観するなんて どうかしている。彼はまだ六十歳。二十年前と さほど変わらず持病もなさそうなのに、あんなことを言われて動揺し、涙まで流すなんて……  それはまるで、十数年前に恋人の発病を知らされた時の感情と似ていた。  体調の不良を放置していた彼を無理やり受診させると、手の施しようのないステージまで進んでいることを知った。あの時の絶望感は筆舌に尽くしがたく、それから一週間の記憶が抜け落ち、闘病している本人から励まされて我に返った。そしてそれから、共に生に執着し、葛藤し、失望し、そして死を受容して……。彼と生きた日々の最終章は、丁度この季節。桜の満開の頃、最愛の恋人を見送ったのだ。  それからの七年間、恋人を失った哀しみを乗り越えるために懸命に生き、最近ようやく心にゆとり――― 例えば、風の匂いや日差しの温かさ、目に映る色彩の美しさを感じることができるようになったというのに、松岡の【もしも】を想像しただけで動揺するのだから心的外傷は思いのほか深刻のようだ。  もう、あんな苦しみや悲しみは御免だ――― そう首を振った成瀬だが、ふと我に返る。 ――― 彼の身を案じる この感情は一体?  そう問いかけた時、全身が総毛立った。『まさかそんな…… 』と首を振ってみたけれど、あの滲むような笑顔に安堵し、真摯な仕事ぶりに昔を懐かしみ、他愛のない会話で和まされているのは事実であり……  この一年で彼の存在が自分を侵食していったことを自覚した時、歩みを止めて濡れた瞳を夜空に向ける。 「…… 人を愛するのが怖い」  それは、松岡に特別な感情を抱いていることを認めた瞬間であった。  成瀬は自宅に着くと、キャリーを玄関に置いたまま部屋へ上がった。そして重いコートを椅子にかけ、ネクタイを片手で緩めた後、使い込んだストーブに火を入れる。  灯油独特の匂いが辺りに漂い、家に帰って来たことを実感する成瀬。が、帰宅した際の習慣を忘れたことに気づいて目を見開く。  松岡に心を占領されて写真の恋人に「ただいま」と言わなかった。彼が亡くなってから一日も欠かさず行ってきたことなのに――― と、ショックを受けた成瀬は、涙の痕が残った顔を見られたくなくてテーブルにある写真立てを思わず伏せた。 ――― 今頃、あいつはどう思っているだろう?  依怙地で意地っ張り、独占欲と嫉妬心が強かった彼のこと。今頃きっと、眉間に皺を寄せて怒っている。  死ぬ三日前まで主治医に文句を言っていたような男なのだ。今晩あたり夢枕に立って首を絞められるじゃないかと想像した成瀬は、泣きながら笑い出したのだった。 プレシャスデイズ ~ 遠くの隣人 終
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