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 タクシーの後部座席、隣に座る男を横目に見る。  雪森の方が背は高いのに、こうして座ると目線の高さにあまり差が無いのがなんとも複雑な気分だ。  話は数十分前に遡り、会がお開きになると、各々同じ方面の者たちに分かれ、タクシーで乗り合わせて帰ることとなった。二次会メンバーの中で唯一、雪森だけが病院方面に戻ると言うので、冬木もそこに同乗することとなったのだった。  街の中心部から離れた場所にある病院までは、車で二十分程かかる。カラフルなネオンに彩られた繁華街の喧騒を抜け、タクシーが住宅街沿いの道路を真っ直ぐ進み始めると、雪森が口を開いた。 「頭痛いの、大丈夫か?」  前を向き、腕組みをした雪森が視線だけをこちらに向ける。 「あ……うん。じっとしてたら大分楽になった。その、さっきは——」  マイクを引き取ってくれてありがとうと言いかけたが、本当に自分の為だったのかは確信が持てず、言葉を引っ込めた。 「ん?」 「いや、その……雪森先生、歌上手いんだなと思って。皆、盛り上がってたし。だけど、なんで最初は上手いんだか下手なんだか分かりにくい曲歌ってたの?」 「面倒くせえから」 「……」  確かに、雪森が改めて歌った後の、皆からのリクエスト攻撃は凄かった。しかし、では何故自ら二度目のマイクを取ってくれたのか、聞きたい気持ちが言葉になって喉元まで出掛かり、膝のあたりで組んだ指をもぞもぞと動かす。 「……てかさ、呼び方、誉でいいよ。俺も冬木って呼ぶ」 「えっ、なんで? そんな急に」 「じゃあ、逆にいつになったらいいわけ」 「もっと親しくなってから……とか?」 「待ってらんねー。これから親しくなりゃ最終的に帳尻合う。プライベートでまで先生とか呼ばれるの勘弁。てことで、よろしく」  いっそ清々しい程の強引さに力が抜ける。 「じゃあいいよ、それで。でもさ、なんていうか、距離の詰め方、急すぎない?」 「アルコールの所為ってことにしとけ」  狭い座席の中で長い脚を持て余しながら、しらばっくれたように雪森が笑う。  そんな様子を見ていたら、人と親しくなるのに理由を探そうとする自分が無粋に思えて、それ以上深く追求する気も失せた。 「ところで、病院に戻るって言ってたけど、家はあの辺なの?」 「いや、家は違う。今日はこのまま病院行こうと思って。明日の朝、入院患者診なきゃいけないんだけど、家帰って寝たら起きられる気がしねぇし。車も病院に置いてあるしな」 「え、じゃあ病院に泊まるの? どこに?」 「医局のソファーにでも寝る」 「風邪ひかない?」 「テキトーな所で寝るのは慣れてる。問題なし」  雪森は何でもないことのように答えると、また目線をタクシーの走る道の先へと戻した。  真夜中を走るタクシーの車内に、街灯のオレンジがかった光が次々と差し込んでは抜けていく。  その中に座る雪森の顔も、光に照らされてはオレンジになり、薄闇の中ではモノクロになる。  雪森に出会ってからというもの、彼に対する印象は自分の中で随分と目まぐるしく変わっていったものだなと思う。  話の進め方は強引だし、未だに何を考えているのか分からないところもままある。  それでも、今まで自分の周りにはいたことの無いタイプの雪森に興味を持ち始めていたし、不思議とどこか愉快な気持ちにもなっていた。雪森の言葉を借りれば、これもアルコールの所為と言うことだろうか。  真夜中の道路はガランとしていて、タクシーは流れるように目的地までの道を進んだ。  病院前へと到着すると、雪森がポケットから手早く紙幣を出し、運転手に渡した。慌てて声を掛ける。 「半分出すよ」 「いや、原先生からタクシー代って言って握らされたから。礼なら先生に言って」  さっさと車を降りる雪森を追うように降車すると、足元がよろけた。 「酔っ払いじゃん」 「……」  傾く体を支えられ、決まり悪さに黙り込んだ。  皆といるときは気が張っていたが、自宅の近くまで来た途端、それもすっかり緩んでしまっていたようだ。  雪森に引っ張られ、目の前にあるコンビニの、空いている車止めに座らされた。 「ここ座って待ってて。病院泊まるし、ちょっと買い物してくる」  別に同じ所に帰るわけでもあるまいし、何故雪森を待つ必要があるのかとは思いつつ、体の怠さに負けてそのまま動かずにいた。  病院前の緑地を抜けて吹いて来る、青い匂いのする夜風が頰を撫でていく。  初夏といえども、夜ともなればまだ空気は冷たい。それでも酔った身体にはその冷たさが心地良く、思わず目を瞑った。 「……っ‼︎」  突然首筋に触れた、水気が滴る冷たさに体が飛び上がった。 「冷たぁっ……なに⁈」  振り返れば、水のペットボトルを持った雪森がくっくと笑っていた。 「やる」  二本持っている内の片方をこちらに差し出して、なおもまだ笑いを噛み殺したような顔をしている。 「……どうも、ありがとう」  雪森の悪戯には呆れつつも、アルコールで乾いた体に水のプレゼントは素直に嬉しかった。  ペットボトルのキャップを開け、水を口に含む。透明な冷たさが喉を通り胃の腑に落ちると、じんわりと身体中に広がり、染み渡っていくようだった。 「家、近くなんだろ? ついでに送ってく」 「いや、いいよ。一人で帰れるから」  心配してくれる気持ちは有り難いが、家はこの場所からすぐそこだ。  不服そうな顔の雪森に再び断りの言葉を言おうとしたところで、思わぬことに片腕をひょいと引っ張り上げられた。 「その辺で倒れられて、うちの病院に救急搬送されてきたら面倒くせえだろ。俺んとこ回ってきたら仕事増えるし止めろ」  有無を言わさぬ様子で道案内を命じられる。  逃れようと腕を振ると、余裕綽々な顔をした雪森が茶化すように余計に腕を振るので、バランスを崩して前につんのめった。 「やーめーろー」 「先に振ってきたの、冬木だし」  あまりに幼稚なやり取りに、傍から見たら、酔っ払い二人が戯れあっているように見えるだろう。  けれどそんなやり取りは、小学生時代に友人達と無邪気にふざけあっていた頃の景色と重なって、口では文句を言いつつも案外嫌な気はしなかった。雪森に腕を取られたまま車止めから腰を上げる。  アパートは病院からほど近くの住宅街の中にあり、冬木の部屋はその二階だった。「もし落ちたら受け止めてやる。受け止められたらだけど」などといい加減なことを言う雪森に背中を見守られながら階段を登り、部屋の前へと着いた。 「……ありがとう。部屋、ここなんだ。水もご馳走さま」  自宅の前に雪森がいるという、現実感のない場面の中で、手に持った水の冷たさだけがクリアーだった。 「ん。それじゃあ俺、病院戻るわ」 「あ、ちょっと……」  用を終えて足早に立ち去ろうとする雪森を、気付くと反射的に引き止めていた。目の前で、訝しげな顔が続く言葉を待っている。  病院に泊まると言っていたのが今になって気になっていた。そうだ、雪森は医局のソファーで寝るとも言っていなかったか。 「なに。ボクんちに泊まってけとでも言おうとしたか?」  雪森が冷やかすような、冗談めいた口調で言う。 「あ、いや……、まぁ、うん」  そう返事したのは、勢いのようなものだったかもしれない。  けれども、いい加減な場所で寝て風邪でもひきはしないかと、雪森を心配する気持ちがあったのも嘘ではなかった。  ついさっきまで揶揄うような表情だった雪森が、驚いた顔をした。 「……本気で言ってんの?」 「いや、病院のソファーなんて寒いんじゃないかと思って。うち、一応来客用の布団一組あるし」  タクシーの中で雪森は、急に距離を縮めてきたことについてアルコールの所為だと言った。  冬木はこの便利なフレーズを、今の自分の行動に当てはめることにした。アルコールは正常な判断力を脳から奪い、気を大きくするのだ。  雪森は遠慮しない性質らしく、冬木の誘いが社交辞令で無いことが分かると、すんなり家の中へと入って来た。 「ロフトの上に布団があるんだけど、出せる? 俺がふらつきながらやると布団もろとも落ちそう」 「ん。勝手に出すわ」  部屋に入るなりベッドに転がった冬木を特に気にすることもなく、雪森はてきぱきと布団を敷いた。 「なんにもお構いできないけど、好きにしてて」 「ほんとになんもお構いしてなくて笑える」  雪森は愉快そうに布団に転がると、電気を消した。 「夜中、転ぶと危ねーから常夜灯つけとく。それじゃあ、おやすみ」 「ん……」  その後、雪森が一つか二つ何かを聞いてきて、自分もそれに答えたような気がしたが、酔ったとき特有の夢か現か分からない、厚い膜のかかったような眠さに意識は沈んでいった。    アルコール頭痛がぶり返したか、こめかみを打つガンガンとした痛みで目が覚める。  寝転んだまま目だけを動かすと、窓から大きく差し込んでくる日差しが部屋を隅々まで明るく照らしていた。前日、出勤する前にカーテンを開いてからずっと開けっ放しだったらしい。  ふと、昨夜の記憶が蘇った。飲み会の後、雪森が部屋に泊まったのではなかったか。  しかし、部屋のどこにもその姿は無い。  痛む頭を押さえつつ、どこへいったのか、はたまた夢でも見ていたのかと廊下に出ると、玄関へと続く先、三和土の上に鍵が落ちていた。ドアの外から、郵便受けの中に放り込まれたのだろう。  そういえば寝る前に、朝出ていく時はどうすればいいのか聞かれたような気がする。  誰もいない風呂場を覗けばシャンプーとボディソープの匂いがして、まだうっすらと湯気の温もりが残っていた。寝ていた部屋の隅には雪森の使った布団が綺麗に畳まれている。  部屋のあちこちに残った痕跡が、間違いなく雪森がこの部屋に滞在していたことを示していた。  テーブルの上を見れば、まだ開けていない水のペットボトルが一本置かれていた。雪森が置いて行ったのだろう。  カラカラに乾いた喉を潤したくて、半分ほどを一気に飲んだ。コンビニの前で飲んだ時と同じく、染みるように美味しい。  あの時は、胃に落ちてゆく冷たさが心地よいと思った。澄んだ冷たさが、アルコールによる体の怠さを流してくれるようだった。  けれども今、室温に馴染んでぬるまった水が落ちた先に感じるのは、ほわほわとした不思議なむず痒さだった。  
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