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「俺の心臓、どうかね」
ふいに掛けられた声に、後ろを振り返る。
先ほど心臓の超音波検査を終えたばかりの男性患者が、身支度を整えながらこちらの画面を覗き込んでいた。
入り口に『エコー検査室』と書かれたプレートが掲げられているこの部屋では、カーテンで区切られた個室ごとに超音波診断機が設置され、それぞれに検査用のベッドが一台ずつ置かれている。
今、その機械の前に立ち、記録した画像をチェックしていた一之瀬冬木は、刺々しさが出ないよう、小さく咳払いをして声の調子を整えた。
「気になるとは思いますが、結果は先生からお聞きくださるようお願いします」
「あら。アンタは先生じゃないの? 白衣着ているもんだから、てっきり先生かと思っちゃったよ」
「すみません。私は医師ではなくて、臨床検査技師なんですよ」
他の患者からも、「先生」や「看護師さん」などと、間違われることはしばしばだ。まだ一般の人にとって、検査技師という職業の知名度はそう高くないということなのだろう。
「先生は、全ての検査結果や患者さんの訴え、色々なことを総合して判断します。私が見ているのはこの検査だけですので、それだけでは何とも言えないんですよ」
「でもこの検査……えっと、心エコーだっけ。これの結果は分かるんでしょ? 大丈夫だった?」
確かに、今しがた冬木が実施した心エコーの結果に限って言えば、所見を述べることは出来る。
しかし、もしここで「大丈夫でしたよ」などと言って、万が一にでも他の検査で重大な異常が見つかったとなれば、患者はどう思うだろう。
——あの人は大丈夫だと言ったのに。
何かしら自分の体に異常が見つかったとなれば、誰しもが少なからず動揺してしまうものだと思う。
そんな時、例えその異常に直接関係の無い検査であったとしても、検者が発した「大丈夫」という言葉は、酷く無責任な言葉となってしまうのではないだろうか。
冬木はちらりと、患者のファイルに目を遣った。そしてそこに書かれた『福嶋』という名字を確認すると、努めて柔らかな表情を浮かべて男性に向き合った。
新人の頃、患者への接遇指導の際、先輩から「一之瀬くんはなまじ顔が整ってるもんだから、無表情だと冷たく見えちゃうこともあるかもね」などと言われたことがある。
顔の美醜に関しては自分では如何とも判断し難いが、「無表情だと冷たく見えがち」という部分は真摯に受け止め、今に至るまで気に留め続けてきた。
「確かに、私はこの検査に限って言えば、所見を述べることはできます。でも『大丈夫』かどうかは、福嶋さんの全体の状態を診て、初めて言えることなんです……」
福嶋が口を尖らせてこちらを見ている。
冬木は福嶋と目を合わせ、微笑んだ。
「福嶋さんの大事なお身体に、無責任なことは言えませんから」
これは冬木の偽らざる本心だ。
それでも、名前を呼び、「大事なお身体」という部分をより強調して言えば福嶋が満更でもない顔をして頭を掻いた。
「そっか……困らせるようなこと聞いて悪かったね」
そう言って、エコー室のカーテンをくぐろうとする福嶋に、本日の予定が入ったファイルを渡す。
「いえ、ご自身のお身体のことですから、お気になされるのは当然のことだと思いますよ。今日は検査お疲れ様でした。お渡ししたクリアファイルを、受付にお出し下さいね」
笑顔を見せた福嶋は、軽く頭を下げて応え、受付の方へと消えていった。
「クールビューティーが繰り出す殺し文句は効くねぇ〜」
揶揄うような台詞と共にひょいと隣のカーテンから顔を覗かせたのは、この生理検査室の主任である北野だ。
小柄で細身の身体、茶目っ気たっぷりの表情、年齢は五十代半ば。
接遇指導で、冬木が「なまじ顔が整っているもんだから」と言われているのを聞いて、「冬木だけにクールビューティーってね」と茶化して以来、度々そのフレーズを出してくる。
冬木という名前は、大雪の日生まれの男子だったことから「雪の重みにも耐える冬の木のように、しなやかに逞しい子になりますように」との願いを込めて祖父から名付けられた。しかし冬という字が入っている為か、どこか寒々しいイメージがあるのは否めない。
尚且つ、ストンとした直毛の黒髪に切長で涼しげな目元、色白な肌にほっそりとした体型の冬木は、その見た目からも相手にクールな印象を与えてしまうようだった。
「あの……」
なんと返せばいいか分からず視線を彷徨わせていると、北野が身を縮めて口をぺんと叩いた。そのなんともいえない表情に、つい力が抜けて笑ってしまう。
もし他の者から同様にされれば憤ってしまいそうなことも、不思議とそうならないのは北野特有のキャラクター性だと思う。
人徳によるものも大きいかもしれない。普段はおちゃらけていても、いざという時は頼りになる人なのだ。検査技術は勿論、指導の上手さや他部署との交渉力を含めても皆から一目置かれており、冬木もまた北野のそういった部分を尊敬していた。
ただ、クールビューティーという呼称に関しては恥ずかしいのでちょっと……、というのが本音といったところだ。
謝罪と共に一旦はカーテンの向こうに消えた北野だったが、再び、何か思い出したように戻ってきた。
「危ない危ない、本来の用を忘れる所だった。一之瀬くん、今の患者さんが午前最後の検査だったでしょ。皆でお昼休みに食堂行こうって話してるんだけど、所見書くの終わったら一緒に行く?」
食堂に行く者同士で声を掛け合うのは、この部署での日常だ。
だが、今日は一つ用があった。
「あ、いえ。今日は昼休みに家に戻ろうと思っているので。皆さんでどうぞ」
「一之瀬くん、家近いもんね。了解了解〜」
またの機会にね、と付け加えて北野が部屋を出て行った。
冬木の住んでいるアパートは、勤務先であるこの病院から徒歩三分という近さにある。
このような立地を選んだのは、冬木の所属する検査室が、診療時間外の緊急検査にオンコール体制で対応しているということが最大の理由だった。
勤務する病院は、地域の中核病院として主に急性期を中心とした患者の受け入れを行なっている。
通常の診療時間外であっても、救急外来へと患者は来るし、病棟の入院患者が急変することだってある。それは昼も夜も関係ない。時間外であっても診断材料としての検査は必要となるのだ。
そういった時間帯の検査に対し当直対応をとっている所も多いのだが、人数の多くない検査室にとっては難しく、そのような場合は往々としてオンコール対応をとる。冬木の職場もまさにそうだ。
オンコールの当番は、朝まで病院に待機している当直と違い、勤務後は帰宅できる。もしも呼び出しが無ければ、出勤する必要は無い。しかし裏を返せば、いつ呼び出されるかは分からないし、いざ出勤となれば少しでも早く病院へと到着し、業務に当たらなくてはならないのだ。
そういった事情もあり、自家用車を所有していない冬木にとって、アパート探しの条件として職場への近さはとても重要だった。冬木はロッカールームで私服に着替えながら、自宅が近い有り難さを改めて噛み締めていた。支度が出来ると、早速アパートへと向かう。
うっかり忘れた財布を取りに行く為だ。
アパートに着き玄関のドアを開けると、置き去りにされていた財布がぽつんと寂しそうに床に横たわっていた。朝、靴を履く時に横に置いて、そのまま忘れてしまったらしい。
自然と溜息が溢れる。
先程話をした際、北野は冬木が昼食をとる為に帰宅するものと思ったようだが、それに対してこちらから敢えて本当の理由は言わなかった。
冬木は今の職場で、なんとなく素の自分というものが出せていない。それは、周りが冬木を実態とは異なるクールなしっかり者として扱っているからだ。
ところがどうだろう。家に財布を忘れて食堂での昼食を食いっぱぐれてしまったように、素の自分は全然しっかりなどしていないし、大して落ち着いてもいない。因みに財布を忘れたのは今月二回目だ。クールと評される外見に関して言えば、偶々このように生まれてしまったとしか言いようがない。
世の中、大抵の人は外面というものを持っているだろう。だが冬木の性格上、皆に抱かれているイメージから外れないようにと無意識に気を張り続けてしまうことはどうにも自分で自分を疲れされた。休憩室で過ごす時間も、気付くと肩に力が入っている。
それでも既に定着してしまっているキャラクターを変更するのにはかなりの勇気がいるし、今更な恥ずかしさもある。
同僚達は皆人柄も良く、自分にも好意的に接してくれ、冬木としても彼らに親しみを持っているのだが、今の自分を客観視すると、「良くしてくれている人達に対していつまでも心を開けていないやつ」といった具合に見えてしまって、何とも言えず後ろめたい……などと、取り留めのないことを悶々と考えていたら、鼻先に立ち昇ってきた焦げ臭い匂いにハッとした。
帰ったついでに昼を済ませてしまおうと、冷蔵庫に残っていたカレーをコンロにかけていたが、ぼんやりする内うっかり焦げつかせてしまったようだ。
職場での自分と、うっかりしがちな家での自分。
財布も、鍋の焦げも、一つ一つは瑣末なことだ。だがこのように続けて起こると、外では取り繕えているつもりの己の駄目さ加減を、改めて目の前に並べられているような気分になった。溜息を溢しながら食べるカレーはほんのり苦い。
職場で気を張っている反動からか、家に帰ると必要以上に気が抜けてしまって、冬木はうっかりを起こしがちだ。
食べ終えたカレー皿を流しに置くと、本来の目的であった財布を手に、冬木は職場へと引き返した。
新緑の季節となり、病院の駐車場を囲むように植えられた木々も、瑞々しい緑を我先にと高く空に向かって伸ばしている。その間を吹き抜けてくる風は清々しく、冬木は大きく深呼吸をした。心地の良い緑の匂いがする。
こんな日は外で弁当でも食べると気持ち良さそうだったな、などと思いながら入り口へと続く通路を歩いた。日差しの暖かさに、つい背伸びをしたくなる。
その時、ふと目を向けた先に、なんとも魅力的なものを見つけた。駐車された自動車の下から伸びる、白に黒のぶちが散らばった尻尾。思わず頰が緩む。
「……」
そっと車に近付き、下を覗く。
陰の中、金色に光る丸い目が二つ、こちらをじっと伺っていた。三角の耳は横にピンと張っていて、言葉は無くとも「警戒していますよ」と伝わってくる。
「ごめんね、怖がらせちゃったね」
猫は一旦は逃げるかのような素振りを見せたが、冬木が何もするつもりは無いことが分かると、その場にごろんと横座りした。地面に頭をすり付ける様子が愛らしい。
ここの駐車場で猫を見掛けたのは初めてだ。何処かから来た野良だろうか。
控えめな声で、鳴き真似をしてみる。猫が「おや?」といった顔でこちらを見た。その様子が可愛くて、もう一度声を出す。
冬木は猫が好きだ。今のアパートはペット禁止なので飼うことは出来ないが、実家では昔飼っていたことがある。
いつまでも見ていられそうだが、気付くと昼休みの終わりの時間が近付いていた。
立ち上がり、再び入り口の方に向き直る。すると、行く手の歩道の先で、縁石に腰掛けている男性がいるのに気付いた。
男性は気怠げに缶コーヒーを飲んでおり、紺のスクラブの上に白衣を羽織っている。その服装からして医師だろう。
いつから座っていたのか。猫に気を取られ、全く気が付かなかった。
これまで院内で見掛けた記憶の無い姿に、こんな先生がいただろうかと通りざまに目を向けた。
医師というより、アーティストやミュージシャンのような雰囲気の人だなと思った。
緩い癖のある髪は、一般的な勤め人に比べるとやや長い。もし自分が同じ様にしたら、只の「髪を切りに行けていない人」のようにしかならなそうだ。しかし彼は独特の雰囲気がある所為か、そういったヘアスタイルとして格好がついて見える。
コーヒーを啜る唇は形良く、高い鼻梁は力強い。長めの前髪から覗く目は濃い睫毛に縁取られ、目力が強そうだ。しかし今は眠いのか、八割程しか開いていなかった。
一目確認するだけのつもりがつい見入ってしまい、こちらを見上げた瞳とばっちり視線が出合ってしまった。
「お疲れ様です」
「——おつかれさまです」
挨拶をすると、一拍置いてぼそりとした挨拶が返ってきた。
歳は自分と同じくらいだろうか。ベテランの医師が多いこの病院では珍しい若さだ。
すぐに前を通り過ぎてしまったが、こちらを上目に覗く、双眸の力強さが印象に残った。
今の人物が誰なのか気にはなったが、大学病院のように大きくはないこの病院のことだ。院内で働いていれば、遅かれ早かれ顔を合わせることもあるだろう。
冬木は午後の業務の予定を頭の中に並べながら、玄関をくぐった。
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