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 翌日、冬木は自分以外の者が支度をしている物音で目を覚ました。  見ると、着替えを済ませた雪森が荷物をまとめているところだった。 「……おはよう」 「おはよ。俺、これからちょっと昨日の患者の様子みてくるわ。昼前には戻る」 「え、戻って来るの?」  寝ぼけまなこで返事する。 「帰ったほうがいいなら帰る。でも、何も予定無いなら一緒にどっか出ないか? 俺、車出すし」  まだぼんやりとした頭には急な話に聞こえて、すぐに返事が出てこなかった。 「……本当は昨日の夜、誘おうと思ったんだよ。けど冬木寝てたし」  昨晩のことが蘇る。  風呂から上がって来た雪森に、一体どんな顔をして向き合えばいいのか分からなくなってしまって、つい寝たふりをした。  部屋に戻った雪森が側に来て名前を呼びかけて来たが、ふわりと漂う石鹸の香りにまた鼓動が大きくなって、とても返事が出来なかった。  そのまま狸寝入りを決め込むうち、いつの間にか本当に寝てしまったらしい。 「そうだったんだ。ごめん」 「全然。それより、どうする? 行くか?」  いつも眠た気で、休みの日には一日横になって過ごしそうな雪森が、自分を遊びに誘ってくれるなんて夢にも思わなかった。  冬木は、雪森と出掛けている自分を想像してみる。  昨晩の自分は雪森に対して、他の友人には感じたことのない感覚を覚えた。でももしかしたら、あれはシチュエーションによる影響が大きかったんじゃないだろうかとも思えた。  もし明るい陽の下で、雪森と単なる友人として動揺することなく過ごせたら。昨日の出来事は、ただ夜の雰囲気に飲まれただけの、錯覚のようなものだったんだと思えるんじゃないだろうか。  冬木は手元の上掛けを握りしめた。 「……行く」  既に玄関へと向かっていた雪森は、こちらをちらりと振り返ると僅かに目元を緩めた。 「いってきます」  いってらっしゃい、と冬木が返すより先にドアがバタンと閉まる音がした。  初めて「いってきます」などと言われた。先程の、雪森の顔が目に焼き付いて離れない。  冬木は、部屋にいるのが自分一人になったことを確認してから、胸に溜まる空気を大きく吐き出した。朝日に包まれた部屋の中でも、やはり胸はどうしようもなくドキドキとしている。  しかしこれはきっと、今日を楽しみに思う気持ちから生まれた胸の高鳴りなのだ。冬木はそう思うことにした。    予告されていた通り、時計が正午を指す前に雪森は戻ってきた。  手には、カラフルな印刷が施されたチラシのようなものが握られている。 「ただいま」 「おかえりなさい」  当たり前のように交わされるやり取りが、胸をくすぐる。 「……お疲れさま。その、手に持ってるの何?」  こそばゆさを振り払うように、目に付いたものに話題を移した。 「医局に置いてあった」  チラシをこちらにかざしながら雪森が答える。それは新聞に折り込まれていたと思しき、地域のイベント広告だった。 「勝手に持って来ちゃっていいの?」 「ソファーに置き去りにされてた金曜のやつだから。どうせ明日になれば、秘書さんが古新聞として片付けるし」  雪森はこちらに近付くと、それを冬木の目の前に広げた。  そこには『みんなおいでよ! 海っ子フェスタ』とカラフルな文字がポップな書体で書かれている。 「キッチンカーとか、屋台も出てるから昼飯が食える」 「へぇ、面白そう」 「じゃあ行く所、ここで決まりな」 「なんか、誉がこういう所行こうって言うのちょっと意外。暑い時期に海行きたいなんて思うイメージ無かった」  部屋に来ると、大抵その辺で転がって目を瞑っているか、寝ながら本を読むなどしている雪森だ。暑くて眩しい夏の海に自ら乗り込んでいくなんて、正直思いがけない行動だった。 「こんな生活してると偶には開放的なとこにも行きたくなんだよ。医者のストレス舐めんな」  悪いかよ、と少し拗ねたように言う雪森の表情は、しかし楽しげだ。 「気持ちは分からなくもないけど」 「異議なければ行くぞ」  そう言って、ちゃっちゃと出て行く後ろ姿を追い掛けて外へと出る。  アパートの前には一台のSUVが停められていた。  ネイビーカラーの車体はよく見れば所々薄く塗装が剥がれている箇所があったりして、年季が入っていることが分かる。 「結構乗ってるんだ?」 「学生ん時に中古で買ってからずっと乗ってる。いい加減買い換えろって言われるけどな」 「愛着のある車なの?」 「いや、全然。走りゃいい」  そのあまりに頓着のない言い様に、思わず吹き出す。でもそんな所が雪森らしくて良いとも思った。 「冬木は? 車乗ってないんだっけ?」 「まぁ、うん。俺、大学入る前の春休みに免許取ってから、本当に一度も運転してないペーパードライバーなんだよね。必要に迫られれば運転するけど、今の所、困る事無いし。正直、運転せずに済むなら運転したくない」  自分でもどうかと思う理由に苦笑を溢しつつ、助手席に乗り込む。 「……ふっ」  急に雪森が笑った。 「え、なに?」 「冬木って、ちょいちょいそういう不精な所あるよなって思って」 「呆れた?」  今の本音は明け透け過ぎだったかな、と言ったことを少し後悔した。もっとしっかりしろと思われたに違いない。  ところが、返ってきた反応は冬木の予想に反するものだった。 「全然。別に車なんて、運転したいやつが運転すりゃいいだろ」  さも当然といった様子で答えた雪森は、冬木の方を向くと悪戯仲間とつるんでいるような笑みを見せた。 「俺も不精な方だから、冬木もそういうとこあるくらいが落ち着く」  そんな言葉に、胸の中で何かが急に膨らんだみたいに息が詰まった。  不思議だなと思う。  他の人の前では言わないようなことを、雪森にはつい言ってしまう。けれども雪森は、そんな不恰好なことを、不恰好だと笑いつつも受け入れてくれる。  塗装が剥げた所があっても、古くても、瑣末な事と気にもされず手元に置かれているこの車に、冬木はなんとも言えぬ共感を覚えていた。  息が震えそうになって、雪森から目を逸らすようにシートへと体を預ける。  ふと上に目を遣ると、バックミラーから下がるカーフレッシュナーに気が付いた。直線的なモチーフのウッドパーツから、グリーンの芳香が広がっている。  雪森の香りだ、と思った。  シートに染み込んだ香りが身体の周りにも漂い、まるで雪森に背中から包まれているかのような錯覚に陥りそうになる。シートベルトのバックルを嵌めようとする手が途端に落ち着きを無くし、もたついた。  そんな冬木の様子に気付くでもなく、雪森が車のエンジンをかけるとオーディオから最近流行りの女性シンガーソングライターの曲が流れ出した。  これは確か、同僚女性達がよく話題にしているドラマの主題歌だ。雪森は直ぐにラジオに切り替えたが、こういった音楽も聴くのかと意外に思った。家で一緒に過ごす時間は多くても、こうして外に出たりすると知らない面が垣間見えて面白いなと思う。 「行くぞ」  雪森の合図で車が発進した。 「誉とさ、こんな風に遊びに出かけるようになるなんて思わなかったな」 「そう?」 「だって俺、最初めちゃくちゃ誉のこと警戒してたもん」 「じゃあそこを俺がうまく突破して来てくれて良かったな」 「え、なんでそうなる? ていうか、そもそも何であの流れで俺と親しくなろうと思ったの」 「酒飲んでたからじゃねーの」  雪森が嘯く。  ところが、急に黙り込み、真剣な顔になった。 「冬木だから」 「え?」 「冬木だからだよ」  突然何を言い出すのかと、その場に固まる。何と返せばいいのか分からず口をパクパクさせていると、雪森が冬木の顔をちらりと見た。 「……っ、ふっ」  ハンドルを握りながら雪森が肩を震わせている。 「——!」  悔しさにその肩を叩くと、とうとう堪え切れないという様子で雪森が笑い出した。 「そういう所がどうかと思うんだよ」 「いや、でも冬木だからっていうのは本当。他の人にそんな風に絡んだりしない」 「説得力ないなぁ」  冗談とは分かりつつも、続いた雪森の言葉に心から不機嫌にはなりきれなかった。
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