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目的地の海岸までは三十分程のドライブだった。ラジオから流れる夏を感じさせる音楽は海岸線を走る今の場面にぴったりで、弥が上にも気分は上がった。
イベントのある日曜の駐車場は混んでいたが、「先に空いている所を見つけた方が勝ち」などと言いながら、ぐるぐる車を走らせているのすら楽しい。自分でも浮かれている自覚はあった。
「めちゃくちゃ腹減った。朝飯食べなくて失敗したわ」
「言ってくれれば朝ごはんあったのに」
「冬木寝てたし。起こすの悪いだろ」
「コンビニは?」
「他のせんせーがいたから、やめた。職場の人間と休みの日にまで会いたくねーし」
冗談とも本音ともつかない悪戯っぽい表情で溢された言葉だったが、それを隣りで聞く「同じ職場の人間」の冬木は、胸がむずむずするのを抑えられない。
——冬木だから
車中で、冗談として聞いたはずの言葉が、頭の中に蘇る。
やっと駐車スペースが見つかると、遅い昼食を調達する為に二人でフードコーナーを目指した。海沿いの遊歩道から見える空は、大きな夏の雲が青空に映えて、底抜けに明るい。いつになく足が軽くて、どこまでも歩けてしまいそうな気がした。
少し行くと、会場となっている芝生の広場が見えた。人も集まり賑やかなパフォーマンスステージやフードコーナーの他にも、フォトスポットやワークショップ、特大シートへのお絵描きコーナーなど、それぞれの場所で皆が思い思いに楽しい休日を過ごしている。
キッチンカーや屋台から出る美味しそうな匂いや煙が抜けるような夏の空に昇って溶けていく様は、幼い頃に行った縁日の記憶と重なる。こんな風に季節を感じさせるイベントに参加するのは、随分久しぶりかもしれない。お祭りのような雰囲気に、訳もなく胸が躍った。
「じゃあご飯買ったら、入り口のバルーンの所に集合でいい?」
「ん。了解」
気持ちの良い天気の中、出店や屋台の間を歩くのはそれだけで楽しかった。
周りを行く人は様々で、家族連れやカップル、友人達のグループに、ペットを連れた人やドライブついでにふらりと寄ったのかなといった様子の人。色々な人がいるが、皆どことなくうきうきとした表情をして見える。
楽しい、うれしい、そんな気持ちで溢れた場所に雪森と二人で来ているなんて、なんだかとても不思議だった。
今、自分も周りと同じような顔をしているのかな、などと考えると気恥ずかしくも嬉しくて、自然と口角が上がってしまう。
「ねぇ、入り口の所にいる人かっこいいね」
そんな時、店を眺めていた冬木の耳に入ってきたのは、近くのベンチに腰掛けていた女性三人組の会話だった。
「え、どれ? あの大きい人? バルーンの側にいる」
「あはは。ああいうのタイプだもんね。つれなくされそうな感じの男」
「何それ〜。女の子にギラギラしてない感じの人が好きなだけだよー。待ち合わせしてるっぽいけど、彼女でも待ってるのかなぁ。そうじゃなければ……」
続く言葉を予想して、思わずドキリとした。
「入り口の所にいる人」とは、雪森のことではないか。
「無理無理。あれは相手にされませんわ」
「そんなはっきり言う? ひどいな〜」
視線は店先に固定しているものの、意識はつい彼女達の方へと向いてしまう。
以前、滝元から雪森が職場の若い女性陣に格好良いと言われているという話を聞いたことはあった。その時は特に何とも思わなかったが、実際このような場面に遭遇すると、自分でもよく分からないもやもやが胸に燻る。
冬木はすぐ側の店で素早くフードを購入すると、足早に待ち合わせの場所へと向かった。
眠いのか、はたまた日の光が眩しいのか。「入り口の所にいる人」は、八割ほどしか開いていない省エネな目をこちらに向けて、冬木を待っていた。
「ごめん、待たせた」
「全然」
雪森の目元がふっと緩む。
きっと以前だったら分からなかったと思う。しかし、雪森と過ごす時間が長くなった今、そんな僅かな目元の変化にも気付いてしまう。
「相手にされませんわ」などと評されていた男から向けられるその柔らかな眼差しに、胸の奥をそっとつつかれるような心地がした。
「ゆっくり食えるとこ行こ」
雪森が会場の外へと出て行く。冬木もそれに続いた。
少し歩いて人も疎らな場所まで行くと、防波堤に二人並んで座った。普段見るよりも、少し高い目線から海を見渡す。
インディゴブルーの地平線からこちらへと、寄せては返し向かってくる水面に、細かな光の粒が跳ねる様に煌めいている。Tシャツの背中を膨らませる海風は、汗の鬱陶しさも、日常の煩わしさも、纏めて吹き飛ばしてくれそうな気持ち良さだった。
「誉は何買ったの?」
「なんか海鮮焼きそば的なの」
「え、そんなのあったんだ。俺もそれにすればよかった」
「やる。でも全部食うなよ」
雪森が自分で食べるよりも先に、冬木に焼きそばのパックを渡してくれる。テンションは通常営業でローだが、表情は柔らかで、楽し気だ。
「それなら代わりに俺のも渡す」
「これ何」
「魚介とトマトソースのパスタ」
「うわ、白いの着てる時に難易度高いやつ」
文句を言いつつも、雪森は赤いパスタをフォークで巻き取り、綺麗に口へと運ぶ。
今日の雪森は、袖にスポーツブランドの小さなワンポイントがついた白いTシャツを着ていた。ボトムはよく履いているブラックデニムだが、Tシャツの方は初めて見るものだ。
実を言うと、朝その格好を見た時から冬木は少し落ち着かなかった。
雪森はいつも黒っぽい服ばかり着ている。そんな雪森に、白とスポーツカジュアルという掛け合わせの爽やかさがなんとも新鮮で、服のシンプルさが素材の良さを引き立てていて......つまり、端的に言って格好良かった。
「珍しいね、白いの着てるの」
「まぁな」
「気持ちの変化?」
「別に。これ貰ったやつだし」
「白、似合うから普段も着ればいいのに」
「毎日、白衣着てる。白いぞ」
他愛もない会話が心地良くて楽しい。
お喋りを交えつつ昼食を食べていると、背後からコンクリートを掻く音が聞こえた。
振り向くと、そこにいたのは一匹の猫だった。
首輪をしていないところをみると、どうやらこの辺に住み着いている野良のようだ。人にかなり慣れているようで、軽い身のこなしでヒョイと防波堤に飛び登ると、雪森にその身を擦り寄せて来た。
「うわ、好かれた」
「いいなぁー。俺にも触らせてくれないかな」
冬木が手を差し出してみると、猫はそっと鼻先を擦り付けてくれた。愛嬌のある仕草に、自然と笑顔になってしまう。
「挨拶してくれたのかな? すごく人懐っこいね。遊びに来た人が餌付けでもしてるのかもな」
猫は、キジトラ模様の尾っぽをピンと立て、雪森の手に戯れついている。
「誉に遊んでもらいたいんじゃない? 尻尾立ててるし」
「そういうのって尻尾振ってる時じゃないのか」
「それは犬でしょ。猫が尻尾振ってるのはイライラしてる時だったりだよ」
「詳しいんだな」
手元の猫に視線を落としながら雪森が呟く。
「昔、実家で飼ってたんだ。叔母さんちで仔猫が沢山生まれたのを、うちで一匹引き取って。ロシアンブルーの雑種で、オスの猫。フジって名前つけて可愛がってたんだけど、この子と違ってあんまり人懐こいタイプでは無かったな。そんなところも可愛かったけど」
「猫によって性格って違うのか?」
「その子によって全然違う。人と同じだよ」
思い起こしてみれば、自由気ままでいつも気怠げなシルバーグレーのその猫は、どこか雪森に似ていたかもしれない。
気が向いた時にふらっと来てはまた去って行く。好き勝手に生きているようで、案外、人間のことをよく見ていると思わせる行動をしたりする。冬木は、そんな自由気ままで、一筋縄ではいかなくて、でも偶に無邪気に甘えてきてくれることもあるフジが好きだった。
「誉ってちょっとフジに似てるかも」
「なんだそりゃ」
「いや、なんか雰囲気とかさ」
「だから家に入り浸られても許してるわけか」
隣に座る男の軽口に、冬木は「確かにそうかも」と妙に納得するところがあった。でも、理由はそれだけだろうか。そんな冬木の逡巡を遮るように、雪森が口を開く。
「……猫といえばさ。前に、コンビニから冬木のこと見かけてたって話したろ」
「あぁ。うん」
病院から出た途端に気の抜けた顔になるのが面白いと、以前に雪森から笑われたのを思い出した。
「あれの他にも冬木のこと見たことあって」
「え、どんなとこ? 聞くの怖いんだけど」
「猫かまってるとこ」
一体どんな場面を見られていたのかと身構えたが、雪森が答えたのは、冬木が心配していたような恥ずかしい場面でもなんでも無く、意外な程和やかなものだった。思わず拍子抜けしてしまう。
「あ。もしかして、俺が初めて雪森に挨拶した日の?」
「ん」
「それがどうかしたの?」
「前に見かけてたのとはまた違う顔見て、どんなやつなのかもっと知りたいと思った」
視線は猫へと送ったままで、雪森が答える。
「あっ、うん、そうなんだ……」
これはどう反応するのが正解なのだろう。雪森の顔をまともに見られなくて、冬木も視線を猫へと向けた。二人分の視線を受けても、猫は何も気にすることなく、自分のペースでゆったりと毛繕いをしている。
「職場で澄ました顔してるやつが、猫に向かってニャーとか言ってんの、面白すぎんだろ」
「そんなことしてたっけ……⁈」
すっかり忘れていたが、そういえば猫に向かって鳴き真似で呼び掛けていたかもしれない。周りを確認しなかった自分の迂闊さを反省した。
「でも、そういう抜けたことしちゃうのが本来の俺なんだよな。逆のイメージ持たれるのが謎なくらいで」
「見た目じゃね」
雪森がぶっきらぼうに言う。
「そうなのかなぁ。変なギャップだよな」
「別に悪いことでも無いだろ。それきっかけで俺は冬木に話し掛けようと思ったし」
「そ、そっか……」
雪森の言葉に、冬木はそれ以上なにも返せなかった。日に焼かれているからだけじゃなく、顔が熱い。
沈黙を破るように、二人の間でニャアと声がした。
先程まで寝転んで毛繕いをしていた猫が、また雪森の側へと身を寄せてきていた。指をくんくん嗅いで検分すると、次いで熱心に舐め始める。
「なんだよ。指に匂いでもついてたか?」
もしかしたら、先程食べていた魚介の匂いに誘われたのかもしれない。くすぐったそうにしつつも、雪森は好きなようにさせている。
「痛えよ。味なんて無いぞ」
ザリザリと指を舐め続けている猫に文句を言いながらも、満更でも無さそうな雪森の表情は屈託ない。
こんな顔も出来るのかと目を見張った。一緒に過ごす時間が長くなるほど、雪森の色んな顔を知る。
猫は伸ばした喉元を撫でられると、満足そうに顔をとろりとさせた。
——羨ましい。
冬木は思わずハッとした。今、自分は何を思った?
猫を凝視して固まっていると、雪森が揶揄うように笑った。
「何だよ、見んなよ。羨ましいのかよ」
「——違う! 誉だよ。誉のことを、羨ましいと思ってるだけだって!」
言い返した口調が、自分でも思いの外強くて驚いた。雪森が虚をつかれたようにこちらを見る。
「それ以外になにあんの?」
「……」
その通りだ。それ以外に何を羨ましいと思うのか。
冬木は気まずさに、波が激しく打ち付けるテトラポッドへと視線を投げた。揺れる波が、ブロックの合間で行き場を無くしたようにボチャンボチャンと飛沫をあげて跳ねている。
「あの……そろそろ帰らない?」
「ん? 急にどうした?」
「海風に当たって、少し体が冷えたかも」
その場に立ち上がり、服の裾を払う。真夏のカンカン照りの下で、吹きつけてくる海風だってぬるい。なんて下手くそな嘘だ。
ショーステージで何か催し物が始まったのか、気付けば辺りにいるのは冬木と雪森くらいになっていた。波と風の音に紛れて、遠くから賑やかな音楽が聴こえてくる。
冬木は、胸のそわつきを振り切るように防波堤から誰もいない歩道へと飛び降りた。自分が何を考えていたのか、直視するのが怖かった。
先程まで二人の間で無邪気に振る舞っていた猫は、気付けばいつの間にかどこかへ行ってしまっていた。
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