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12
午前の検査を終え、冬木は滝元と共に、職員食堂へと来ていた。
月曜日は週替わりの麺と定食が切り替わる日なので、他の曜日よりも混雑しがちだ。
食券売り場に並んでいると、同期の石田がこちらに気付いて近づいて来た。
「おつかれー」
「石田さん、今日は食堂なんだ」
「うん、今日は旦那さんがお弁当要らない日だったから。自分の分一つだけ作るのもなんだし、食堂で食べようって思って」
石田は同期の中で唯一の既婚者で、「どうせ向こうの分も作るから」といつも手作りの弁当を持参している。
「毎日作ってるの凄いよね」
「旦那さんが羨ましいです。僕、今になって家庭料理の美味しさに気付きました。ほんと有り難かったなって」
就職を機に一人暮らしを始めた滝元は料理が苦手らしく、実家のご飯の有り難さが初めて身に染みたとよく溢している。
「その代わり夜ご飯は向こうに作ってもらってるから」
そう言って石田は照れたように笑う。幸せそうな笑顔だ。
「僕ももし結婚出来たら、奥さんに料理作れるように頑張ろうかな……。一之瀬さんは料理お得意ですよね? 毎日自炊してらっしゃるって言うし」
「料理歴で言えば、実家暮らしだった私よりベテランだもんね。お弁当作ったりはしないんだ?」
急に話の矛先が自分に向いて、たじろぐ。
「得意って程でもないよ。弁当も……実は弁当箱買って、一回は作ったことあるんだけど。早々にうっかり蓋のパッキン失くして、それが何故だか妙にがっくりきちゃって。弁当作り自体終わったっていう……」
つい雪森といる時のような調子で話していたことに気付き、しまったと思った時にはもう遅かった。語尾が尻すぼみになる。
それを聞いた二人は、一瞬きょとんとした顔をして、それから少し驚いた表情になった。
「な、なんかごめん。間抜けな話で……」
二人の反応に不安になってしまい謝る冬木に、滝元がかぶりを振った。
「いや、そんなこと。ただ、一之瀬さんのそういう話が意外だなと思っただけです」
滝元はそう言ったが、対して石田は予想外のことを話した。
「そう? 一之瀬くん、そういうお茶目な感じのところあるなとは前から薄々思ってたけど」
「えっ」
「一之瀬くんの入職の頃からをずっと知ってる人は、割とそう言ってたりするよ。生理検査の副主任さんも、そこが可愛いって言ってたもん」
そんなこと、今まで一度も聞いたことが無かった。
「でもなんか最近、一之瀬くん少し変わったよね。前だったら、僕は作らないかな、の一言で終わりだったと思うもん。ちょっと前から、自分のことというか、気持ちを話すようになったよね。良い意味で隙を見せてくれるようになった」
「そ、そうかな……」
「確かに、同期の子達も、この頃一之瀬さんの雰囲気が柔らかくなったって話してました。親しみやすい感じになった気がするって」
「見た目クールな感じだから、話したことない年下の子なんかからすると近寄り難い感じあったのかもね。でも最近よく笑うし、表情も伸び伸びしてるなぁって私も思ってたよ」
自分では全く自覚が無かったが、そうなのだろうか。
しかし言われてみれば、入職してからというもの無意識に気持ちも身体も緊張させてしまいがちだったのが、この頃は幾分楽になっていた気がする。
以前は帰宅すると同時に、大きく息を吐いて脱力していたというのに、最近そうした覚えが無い。自然と、力を抜くことが出来る様になってきたのかもしれなかった。
これまで、自分の中で職場とプライベートには明らかな境界線があった。しかし、自宅という極めて私的な空間に、職場の人間である雪森が日常的に入り込んでいることが、その境界を曖昧なものにしてしまったのかもしれない。
自分自身のポジティブな変化を肯定された照れ臭さに自然と顔にはにかんだ笑顔が浮かぶ。
「そうそう、そういう顔! いいと思うなぁ、最近の一之瀬くん。あ、変わったといえば、今朝の雪森先生の話聞いた?」
突然出てきた名前に、どきりとする。
「私、病棟の看護師の子と友達なんだけど、先生が髪切ってキャーキャー言われてるって。あ、ほら。噂をすれば」
榎本の目線の先を見ると、襟足のすっきりしたショートヘアの長身が、食堂のカウンターに並んでいた。心臓が一回転しそうに大きく跳ねる。
注文したメニューの載ったトレーを受け取ったその人は、冬木がゆっくり一つ瞬きをすると同時にこちらを向いた。
雪森だ。変わらず前髪は長めだが、アップバングになったことで濃い目元がより印象的になっている。元々の癖をいかしたカットがつくる、ピンパーマのような毛流れが抜け感を演出していて本人の雰囲気によく似合っていた。
「かっこいいねぇ」
石田が呟いた。
前だって雪森は格好良かった。しかし髪を切って小ざっぱりとした雪森の格好良さは以前とのギャップも相まって、心臓をぎゅっと握り込んでくるかのような強烈さがあった。
こちらに気付き、近づいて来る足音に、騒がしい胸の鼓動が重なる。
「髪……、切ったんだ」
目の前に立つ、見目良い男の姿をまじまじと見た。なんとか言葉を絞り出したが、声が上擦ってしまいそうになるのを押さえるのがやっとだ。
「ん。昨日帰った後、時間あったし。面倒臭くてずっと伸ばしっぱだったけど、流石に暑かったからな。切れ、切れ言われてたし」
雪森がその大きな手で、無造作に髪をがしがしと梳かした。もしかして、照れているのだろうか。
「凄くいいですね!」
滝元が憧れを込めた目で、雪森を褒めた。横で石田も大きく頷いている。
「ありがとう。俺は短くしてくれって頼んだだけで、あとはお任せだから、切ってくれた人の腕が良かったんだな」
さらりと言って、去っていく。いつもであれば食堂で会った時には一緒のテーブルで昼食をとるが、今日は冬木が検査室の仲間と一緒だった為に遠慮したのかもしれない。
後ろ姿を目で追いながら、冬木はその場に立ち尽くしていた。胸は今もバクバクと速いリズムを刻んでいる。胸がどうにも切なくて、苦しくて、甘い。もう認めざるを得なかった。
雪森が好きだ。
こんな気持ちは、友人に対して抱くものじゃない。親愛の情でも、決してない。自分は、雪森に恋をしている。
それは今、偶々事故のように自覚してしまっただけで、きっととっくの前から好きだった。
なんの心の準備も無く、突然に自分の気持ちと正面から向き合わされることとなってしまい、どうすればいいのか分からず途方に暮れた。自分が同性を愛せる側の人間だったことすら、今まで知らなかったのだ。
「いいなぁ。頓着なさそうにしてるのに格好良いのがかっこいい」
滝元がほうっと溜息を吐いた。同じことを、冬木も折に触れては密かに思っていた。
「さっき雪森先生とお話してましたけど、プライベートでも仲良いんですね。先生って、一之瀬さんと話す時、なんか楽しそうというか、目が優しい気がする」
「そ、そうかな……気の所為じゃない? 遊びに行ったのも昨日が初めてだよ」
動揺しつつも、言われて悪い気はしなかった。そうだったら嬉しいと、ほわほわと心が浮つく。
しかし、次に石田が放った言葉に、そんな気分も一瞬で吹き飛ばされた。
「やっぱ、彼女の影響なのかなぁ」
「えっ」
冬木と滝元が声を合わせて同時に石田を見た。
「わっ、なになに。びっくりした」
予想外の反応だったのか、逆に驚いた顔をしている。
「雪森先生、飲み会の時は彼女いないって話してましたよ。出来たんですか?」
「いや、聞いたことなかったけど……」
滝元に訊ねられ、首を振る。
「さっき話した友達から聞いたよ。友達はオペ室の子から聞いたって。なんかそれっぽいところを見た人がいるとかなんとか……車に女の子乗せてたって言ってたかな。あと、彼女の家から出てきたとか」
なんとなく、雪森にはそういった特定の人はいないだろうと考えていた。
だって、もし彼女がいたら、あんなにちょくちょく自分の家に泊まりに来たりなどするだろうか。
「まぁ、医者で、尚且つかっこいいってなれば放っておかれないよね」
「いいなぁ……」
冬木の意思に関係なく両耳は二人の会話を拾うが、まるでマイクテストのハウリングでも聞かされているかのような気分だった。気が遠くなりそうな、自分にしか聞こえない鳴音に、頭の中を乱暴に掻き回されて思考が纏まらない。
今ばかりは、「クールに見える」と評される自分の容貌を良かったと思えた。冬木の心中に、二人とも気付いてはいない。
楽しみにしていた今週の週替わりメニューは麻婆丼だった。赤く染まったご飯を口に含めば辛味に舌は痺れたが、味はいつに無くぼんやり曖昧で、とろみの力を借りてもなかなか喉を通ってはくれなかった。
食事を終え、席を立った雪森が去り際、わざわざこちらに手を挙げていってくれたのが堪らなく嬉しく、しかし、そう感じてしまうことが堪らなく辛かった。
明確な恋の自覚と、失恋がほぼ同時とは、なんと皮肉なことだろうか。
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