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13
その日の終業時間を過ぎても、冬木は生理検査室に残っていた。
デスクに座り開いているのは、次に習得したい領域についての超音波検査教本だ。
検査室の蔵書ではあるが、借りて自宅で読むことだって出来る。しかし敢えて居残って読んでいるのは、雪森の訪問を体よく断る理由が欲しいからに過ぎない。
もし今日もいつものようにメッセージが来たら、「まだ職場だから」で断ろう、そんな算段をしていた。いつまでもそんな手口でかわし続けることは出来ないとは分かりつつも、せめて今日だけは目先の苦しさから逃れたかった。そもそも雪森と会ったところで、到底いつも通りには振舞えそうもない。
ちらりと壁の時計に目を遣れば、スマートフォンがお決まりの〈今日、いい?〉を受信することの多い時間帯を過ぎていた。
夕飯時のこの時間、部屋に残っているのは冬木と北野の二人だけだった。北野は自分のデスクで、出勤簿や皆の休み希望などを纏める事務作業をしている。
もしこれから雪森が来ようとしても、「今日は遅くなって疲れているからごめん」と返信しよう。そう思い、机の上の片付けを始めた冬木に、北野が声をかけてきた。
「一之瀬くん、帰る? 遅くまでお疲れ様」
「お疲れ様です。お先失礼しますね」
居残っていたのには勉強する為だけではない理由も含まれていたので、若干の後ろめたさに曖昧に微笑む。
「北野さんはまだ帰られないんですか?」
「うん。これだけやって帰ろうかな。さっき家の奥さんからのメール見たら、お友達と食事行くから外で済ませてきてね〜って書いてあってさ。結婚三十五年ともなればこんなもんだよ。いやぁ、石田さんちみたいな新婚さんが羨ましいねぇ」
自虐めいたことを言う北野だが、北野夫妻は夫婦仲がとても良いことで知られている。娘さん達は既に家を出ているので、休日は夫婦二人でよくあちこち出掛けているらしく、検査室にもよくそのお土産が置かれていた。
「石田さんと言えば、今日廊下で話した時に、一之瀬くんのこと話してたよ。最近変わりましたよねって」
「それ、今日僕も直接聞きました。滝元くんも同じようなことを言っていて。でも、自分じゃ全然そんな風に思ってなかったんですけどね」
「自分のことなんてそんなもんだよ。でも僕も、一之瀬くんの最近の変化にオッと思っていた内の一人だよ」
掛けていたリーディンググラスをずらし、冬木の目を覗き込むように北野がズバリと言った。笑みを浮かべる口元は楽しげだ。
「石田さん達には、表情が豊かになったとか、隙を見せるようになったとか言われました。あとは雰囲気が柔らかくなったと」
「そうだね。いい意味で遠慮が無くなってきたんじゃないかな。それにしても、隙か。はは、石田さんは面白いこと言うなぁ」
北野は冬木の方に体を向けると、脚を組み替えた。
「でも、そっちが本来の君なんでしょう。君の中身が変わったわけじゃなくてさ。自分を出せるようになってきたということじゃないかな」
北野の言葉に、思わず目を見開く。
「他人に対して自分を出すって、ある程度、自分に自信がないと出来ないと思うんだよな。最近よく自己肯定感とか言われるじゃない? 自分こういう感じでもいいんだって、背中押してもらえるとなんか強くなれるよね。なんだかんだ人って、形は様々であれ、他の誰かから受け入れてもらえることでその辺強くなるんじゃないかと思うんだよ、僕は」
突然始まった自己肯定感についての考察に、北野の意図が読めず戸惑っていると、続く一言に胸をつかれた。
「一之瀬くんにも、そんな人が現れたのかと思って」
解けなくて放っておいたら忘れてしまっていた、謎解きの答えを人から言われたような、そんな心地だった。
細められた北野の目に灯っているのは、子を見守る親の様な温かさだ。言葉には素朴な祝福が込められているように感じた。
気持ちに表情がついて来ず、キョトンとしてしまった冬木の顔を見て、眉をヒョイと上げると北野は口を叩いた。
「ごめん。ま〜た余計なこと言ってしまったわ。失敬」
「あ、いえ」
嫌な気持ちは無かった。それは、北野が興味本位の詮索で、「そんな人」を口に出したのでは無いことが分かっていたからだと思う。
「そんな人……そうかもしれません。でも——」
「ん?」
「……ままならないなぁ、と思っています」
目線を落として言えば、北野は眉を寄せて微笑んだ。
「そうか、うん」
「はい」
詳しく聞こうとするでも無く、助言をする訳でも無い。それが有難かった。自分でもまだ気持ちを整理出来ていないのだ。
職員玄関を通り自動ドアをくぐると、昼の暑さを溜め込んだ、熱くて湿気った空気にぶつかった。目の前に広がる、紫とピンクの色が混ざったマジックアワーの空はまだ明るくて、日の長さにしみじみと夏を感じる。
夕暮れの道に一人になれば、今日、石田や北野から言われた言葉が頭に浮かんだ。
これまで自分が隠そうとしていた部分に気付いていたにも関わらず、意に介されないどころか寧ろ好意的に受け止めてくれていたことに拍子抜けしたが、同時に、案外そういうものなんだなとも思えた。
良くも悪くも、自分が思うほど人は他人を気にしていないんだろう。そこには無関心という意味だけではなく、優しさであるとか、寛容といった側面もあると思う。それは「気にしないでいてくれる」ということだ。
職場でのキャラクターを変に意識していたこれまでを振り返れば、そんなことを頑張って自分は一体何を守ろうとしていたんだろうかと憑き物が落ちたような心地だった。
——一之瀬くんにも、そんな人が現れたのかと思って。
北野の考えを当て嵌めれば、自分が雪森に惹かれ始めた、そのきっかけが掴めた気がした。
職場で力を抜けるようになったのもそうだ。
雪森の存在が、プライベートと職場の間に横たわるラインを曖昧にしたということも確かにあるかもしれない。しかしなにより雪森は、誰よりも先に言葉にして、伝えてくれた。遠慮が無くて、だからこそ嘘がないと思える。そんな雪森と一緒にいると、心配がなかった。
これからも、一緒にいられたらいいのに——。
その思いは、叶えられそうもないのだが。
アパートを目指して住宅街を進むと、ぬるい風に、辺りの家々からの夕餉の匂いが乗ってきた。
室外機から吹き出す熱、曇った浴室の窓から溢れる暖色の光や子供のはしゃぎ声、どこか懐かしい石鹸の香り。自分以外の人々の営みが確かにそこにあると感じる。
その拍子、不思議とここでは自分だけが独りぼっちであるかのような寂しさがじわじわと湧いて出てきた。感傷的な気分に、家々から流れる温かな空気が優しくも切なく沁みるようだ。
目の奥がつんとして、薄明の空を見上げれば、紫のグラデーションに浮かぶ電線のシルエットがぼんやりしてきて、ゆらゆらと揺れた。湧いてきそうになる涙を瞬きで振り払い、誤魔化し誤魔化し歩いているうちに、いつの間にかアパートの前へと着いていた。
ポケットから鍵を出しながら、階段に足を掛ける。するとその時、二階の共用廊下を誰かが歩く気配がした。
同じアパートの住人であれば挨拶をしようと、階段を登り切った所で顔を上げた。しかし、そこで玄関灯に照らされ立っていたのは、冬木が今日は避けようと決めていた「そんな人」だった。
「誉——」
「あ、すげータイミング」
「どうしたの。連絡来てなかったから、今日は来ないんだと思ってた」
「留守なら留守でいいと思ってたから。あれ」
雪森が背後を親指で指した。
冬木の部屋のドアノブに、何やらビニール袋が掛かっている。
「昨日の帰りとか、今日もなんか元気なかったし。差し入れ」
「……」
「まぁ、そうは言っても連絡する程の大したもんじゃねえんだよ」
共に部屋の前に行き、袋の中を確認すれば、以前にカップ麺を啜る雪森を見ながら「期間限定終わっちゃったけどまた食べたいんだよね」と冬木が話した袋麺が入っていた。
「俺にカップ麺ばっか食うなって怒るくせに、自分も似たようなもん食ってんじゃんって皮肉るために買ってきた」
「なんの嫌がらせだよ。俺は本当にたまにだもん。野菜と一緒に煮るし。毎日のように食べてる誰かとは違いますー」
雪森に向かってべっと舌を出すと、顎を掬くって上を向かされた。
目線がまともにかち合う。体に響くうるさい心臓の音が、指先から伝わってしまわないか焦った。
ふっと目元を柔らかく緩めて、雪森が手を下ろす。
「冗談だよ。買い出し行ったら見つけたから。ラスト一個」
「そっか、ありがと……」
嬉しかった。なんて事ない戯れ合いも、意地悪な冗談を被せた雪森らしい計らいも。
好きな相手が、自分のことを気にかけ、喜びそうなことを探してくれた。それだけでどうしようもなく胸が震える。
「じゃあ、帰るわ」
用を終えた雪森があっさりとした表情でそう告げ帰ろうとするので、思わず「えっ」と驚きの声を漏らしてしまった。
「ん?」
「いや、その、寄ってかないのかなって——」
自分でも、なんて現金なやつだと思う。
あんなに今日は会うのを避けようと思っていた雪森を引き止めている。結局、自分はいざ雪森に会ってしまえば離れ難いのだ。恋とはこんなに意志をぶれぶれにしてしまうものだったのか。
ところが、次に返された言葉に冬木は引き止めたことを後悔した。
「今日はこの後に約束あるから」
「……っ、そっか……」
約束という言葉に、誰と? と強張る声が頭の中でこだました。余計なことは考えまいと振り切る様にドアの方に顔を向ける。
ところがその時、背後で雪森が何か思い出したような声を上げた。
「そういや俺、昨日コンタクトケース忘れてたんだ。ついでだから取ってきていいか?」
「えっ、ああ。うん」
自分に続いて玄関を通り、脱衣所へと入って行く雪森を横目に見ながら、冬木は廊下にある流しの前に立った。
手を洗おうと蛇口をひねれば、夏の暑さに晒された、ぬるい水が手に落ちる。雪森の「約束」にざわつく気持ちごと洗い流す勢いで、ごしごしと強く手を擦った。何か話でもして気を逸らそうと、脱衣所に向かって声を掛ける。
「もう夕飯は食べたの?」
「食べた。冬木は?」
「——うん、済ませてきたよ。もう今日はお風呂入って寝ようと思う」
本当は食欲がないので夕飯をパスしたのだが、咄嗟に嘘をついていた。
「じゃあ、脱衣所来たついでに給湯押しといてやるよ」
元気が無い冬木を慮ってか、気を利かせた雪森がこちらに向けて呼びかけてきた。
「いや、俺、普段シャワーだけだから湯船はいいよ」
うっかりしていたとしか言いようがない。思考が遠くにいっていて、不意の呼びかけに何も深く考えず答えてしまった。
はっとして、思わず後ろを振り向けば、廊下に顔を出した雪森がこちらを見ていた。
「そうなのか?」
「あ……」
「いつも、湯船張られてたから」
「……」
「飯、俺の為に取っておいてくれてるのは分かってたけど、……風呂も?」
冷静になれば、「最近は暑いからシャワーだけにしていた」などといくらでも言い訳出来たはずだ。しかし、自らの失言に驚いて、固まってしまった頭はちっとも回ってくれなかった。無言が、即ち肯定だった。
雪森が一歩、こちらに近付く。アパートの狭い廊下では、それだけで触れ合いそうな程の距離になる。
真っ直ぐにこちらを見つめる強い目に、射すくめられてしまったようだった。その場に立ったまま動けない。
「——ふゆき、答えて」
雪森の顔が、近い。名前を呼ぶ声に、甘さが滲んでいるように感じるのは、希望的な悲しい錯覚だろうか。
——彼女の影響なのかなぁ。
「……っ」
頭の中で再生された石田の声に、反射的に身を捩り、雪森に背を向けた。
そうだ。思い返せば、誰かしらの気配はいくつもあった。車で掛かった流行りのドラマ音楽、貰ったと言う白いシャツ、髪を切れと言ってくる相手——。
「こんなこと言うのもなんだけど、さ……前から、しょっちゅうここに来てるだろ? いいのか? ……他に、誉の帰る所があるんじゃないの?」
誰の所か、ということは声が震えてしまいそうで言えなかった。感情の奔流に押し流されないようにと足を踏ん張れば、意図せず強い口調が出た。
風呂も、食事も、何か見返りを求めてしていたことじゃない。
それが、今はひどく滑稽に思えた。そもそも始めから自分が出る幕など無かったのだ。冬木がせずとも、雪森に心を配ってくれるであろう人がいる。
傍から見れば甲斐甲斐しいともとれる行為をして、自己満足していた自分が猛烈に恥ずかしく、居た堪れなかった。
「……まぁ、あるけど」
そんな中での雪森からの返答は、渦巻く感情に揉まれてよれよれの心にトドメを刺すには充分だった。
「じゃあ、そっちに行きなよ」
背後を振り返る気力も無く、背を向けたままに口から出て来た言葉には、棘が生えていた。
流れる沈黙に、胃がキリキリする。瞬きを数回する程度の間が空いた後、背後の雪森の気配がふっと遠のいた。
「悪かった」
それが、何に対する謝罪なのかは分からなかった。声からは感情が読み取れず、しかし確かめる勇気も出せなかった。雪森の口から、決定的な言葉を聞くのが怖かった。
雪森が玄関を出て行く音を聞きながら、冬木はまるでその場に足が張り付いたかのようにただ立ち続けていた。
鼻の奥がツンと痛い。
ふと床のカーペットを見れば、薄いしみが目に入った。カップ麺を片付ける雪森に冬木がうっかりぶつかり、溢した時のものだ。二人でぎゃあぎゃあ言いながら片付けたのが懐かしかった。
上に目を遣れば、ロフトの一番奥に仕舞い込まれていた布団が、いつでもすぐに出せるよう手前の位置に置かれている。
座ろうと移動すれば、つい雪森の定位置を意識して、その向かいの場所に立っていた。
泊まるようになってしばらく経ったが、雪森は基本的に私物を残していかない。帰ってしまえば、何も残らない。しかし物はなくとも、確かに残る気配と、いつの間にか自分に染み付いていた動きに、否が応でも雪森を感じてしまう。
毎日見ている、なんて事のない部屋の光景がゆらりと滲み始め、下を見ればカーペットにぽつぽつと丸いシミがいくつも出来た。
恋愛でこんな風に涙を流したのは初めてだった。
今までに付き合っていた相手から振られた経験はある。失恋とはこういうものか、そう思って、悲しい気持ちになった。しかしそれだけだった。
今感じているのはもっと切なく、どうしようも無く、只々打ちのめさせるような、そんな痛みだった。
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