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オンコール当番の日、急患室の壁に貼られた当直医当番表を前にして、冬木の表情は進退窮まれり、といった様相を呈していた。
本日の日付の横に書かれている名前は、『雪森 誉』。
あの日の気不味いやり取り以降、雪森とは一切接触のないまま一週間が過ぎていた。
その間、雪森の方からアパートに訪ねて来ることも無ければ、メッセージを送って来ることも無かった。
院内では食堂や売店など、遭遇しそうな場所を冬木が悉く避けていたこともあり、顔を合わせることも無かった。
そんな状態だったところに、どうしたって顔を合わせなければならないであろう局面がついに巡ってきてしまった。
「技師さ〜ん、検体お願いしまーす」
後ろから掛けられた声に、はっとする。
処置室から顔を出した看護師が、手に採血菅数本を持ってこちらに手を挙げていた。
「待たせちゃってごめんね。なかなか採血とれなくて。脱水で血管萎んでる所為かな」
「いえ、ありがとうございます。では、検査室に戻りますね」
本日一件目の仕事は午後九時過ぎ、夜中の呼び出しに備えてもう休もうと布団に入った時だった。
病院に着いて白衣を羽織り、急患室に到着した時には、既に診察は終わったのか医師の姿は無く、看護師が処置や検体の採取をしているところだった。熱中症で運び込まれた患者だと言う。
まだ時間が掛かるので待機していてくれと頼まれ、待ちがてら今日の当番医は誰かと表を見れば、それが雪森であることを知ったのだった。
急患室を後にし、検査室へと戻ると、受け取った検体を測定機にセットした。
遠心分離の必要な検体を機械にかけている間、つい頭に浮かんでしまうのはやはり雪森のことで、瞬きする度に瞼の裏に顔がチラつくようだった。
気持ちの整理がついていないまま相対することへの不安はある。ただ、今の状態を続けることへの限界を感じ始めていたのもまた事実だった。
初めの二、三日こそ純粋にあの日の気不味さが先に立っていたが、しかしそれを過ぎた今となっては、ずるずると避け続けてしまったことに対するバツの悪さが前に出て来て、自分からなんと言って話し掛ければいいのか分からなくなってしまっていた。
なにか、再び話すきっかけが欲しかった。
冷静になって考えれば、あの時の自分はひどく一方的で、突き放すような物言いだった。もっと他にやりようがあったのではないかと今になって後悔が湧いている。
以前と全く同じには振舞えそうもないが、それでも一度言葉を交わしてさえしまえば、少なくとも謝罪は出来る気がした。
それを思えば、今回のようなシチュエーションで顔を合わせるのは良い機会なのかもしれない。仕事だと思えば、割り切って接することが出来るはずだ。それを突破口にしよう。
目の前の遠心機からビッーっと目の覚めるような音がした。遠心分離完了の音を合図に、私服の上に羽織った白衣を引っ張り、襟をただす。
先程までぐるぐると考えていた思考を断ち切り、冬木は仕事に取り掛かった。
オーダーされていた検査の結果が全て揃った頃、病棟からも一件検査が出た。急患室に雪森の姿が無かったのは、どうやら病棟に呼ばれていたからだったようだ。
そちらも終わり、もうこれで新たな検査が出そうになければ帰ろうと、急患室の看護師に電話を掛ける。
「お疲れ様です。検査の一之瀬です。これから急患が来る予定はありますか?」
「いいえ、今のところ無いですー。病棟もさっきの検査で終わりみたいなんで、一旦帰っていただいて大丈夫ですよ」
「わかりました。ありがとうございます」
いつもであれば、早く帰れると喜ぶところだが、今日は個人的な案件で気合を入れていた所為か、なんだか拍子抜けしてしまう。
部屋の片付けをして帰り支度をすると、通路に出た。
職員玄関へと向かう通路は急患室の前へと繋がっているので、もしかしたら雪森とすれ違う可能性もあるかもしれないと無駄にドキドキする。
階段を降り、その先の通路に出ようとした時、見えた人影に心臓が跳ねた。しかし、期待虚しく、姿を現したのは、先程電話をした看護師だった。
「あ……お疲れ様です。あれからも急患到着の連絡は来て無いですか?」
「無いですよー。雪森先生の時にこんな静かなの、珍しいくらい。先生、あんまり断らないからね。さっきも、この静けさがなんか気持ち悪いねーなんて他の看護師と話してたの。あっ、ちょっとごめんね」
鳴り始めた院内PHSを耳に当てながら、看護師が冬木にお疲れ様の仕草をした。
冬木もそれに軽く礼を返すと、守衛に退勤の挨拶をして病院を後にする。
悶々と考え事をして脳が疲れていたのか、帰宅して布団に入ると、すぐに眠りに落ちた。
薄ぼんやりと霞のかかった様な視界の中、夢の中で、目の前に雪森がいた。
「冬木」と甘い声で名前を呼び、顔を近づけてくる。腕は腰に回っていて、体はお互いに隙間を埋め合うかのようにぴったりとくっついていた。
キスされる、と思った。して欲しい、とも強く望んだ。
唇に雪森が触れる瞬間、そっと瞼を閉じた。
ところが、唇に期待していたものはいつまで経っても触れてこない。抱き合っているはずの雪森を確かめようと、目を開けた。
視界に映ったのは、暗い中でもぼんやりと白い天井と、丸いシーリングライトだった。暗い部屋の中、枕元で呼び出し用の携帯電話が鳴っている。
慌てて通話ボタンを押し、電話に出れば、これから救急車が到着するのでお願いしますとの連絡だった。
病院へ向かう支度をしながら、冬木は先程の夢を反芻する。
雪森が差し入れを持ってアパートに来た日。廊下で見つめられ、名前を呼ばれた時、正直このままキスされるのではないかと思った。
その虚しい期待が行き場を無くして、こうして亡霊のように夢にまで出て来たのかと思うと、何とも言えない恥ずかしさが込み上げた。
雪森のキスは、自分では無い、他の誰かに贈られるものであるというのに。
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