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 冬木が急患室に到着すると、ストレッチャーに乗せられた中年男性が既に急患室に運び込まれ、診察を受けていた。  息苦しそうに、背を上げたストレッチャーにもたれ掛かる患者の傍らにいるのは、スクラブの上に白衣を羽織った雪森だ。顔を見るのはとても久しぶりに感じた。  つい先程自分の欲望を映したような夢を見た所為もあり些か後ろめたさを感じたが、仕事モードに入れば驚く程に気持ちをニュートラルに保てた。 「検体を受け取りに来ました」  看護師に声を掛ける。 「はーい、ありがとうございますー。今から採るんで、先に心電図とってもらってもいいですか?」 「はい」  冬木は返事をすると、心電図の電極を男性の体に着けていく。  すると、左の鎖骨下にある平たい膨らみに気が付いた。心電計のモニターに流れているのは思った通り、胸にペースメーカーを挿れている者に特有の波形だ。  心電図の記録が終わったのを見計らって、雪森が口を開いた。 「寝てる時に突然苦しくなったんですよね。胸の痛みはありましたか?」  問いかけられた男性がしんどそうに顔を上げた。 「急に苦しくなっただけで、痛みは……よく分かんなかったな……。しばらく様子見てたら、どんどん酷くなってきて救急車呼んだ感じです。この苦しいの、どうにかしてください」  確かに、ぜいぜいと息をする男性の顔は辛そうだ。その様子は以前に雪森や滝元と共に見た、起坐呼吸の心不全患者の姿と重なった。  他にもいくつか質問すると、雪森はそれらを電子カルテに入力し始めた。 「心電図どう?」  呼び掛けられ、心電図の記録用紙を傍らに差し出す。  PCの画面に目を遣ると、鑑別疾患として『ACS』の文字があった。その三文字が意味するもの——それは急性冠症候群、心臓を養っている重要な血管の流れが妨げられることで、心筋が傷害されてしまう病態だ。心筋梗塞もこれに含まれるが、緊急に処置しなければ生命に関わる。 「ペースメーカー波形なので、虚血に関しては以前にとった心電図と比較しないと判断は難しいですね」  雪森が心電図に目を通す。 「今回初診だから無いな。あ、フルペーシングか」  ペースメーカーは、徐脈による心拍の欠落を防ぐ為の器械だ。  自前の脈が出ない時、器械が代わりに脈を打って助けてくれる。ただし、それは器械が出す電気刺激によって行われる為、心臓からの電気信号を波形として記録している心電図に影響を及ぼしてしまう。  全ての脈がペースメーカーの手助けによる、フルページングという状態だと、その人本来の心電図波形は見えてこないのだ。  今回疑われるような、心臓を養う血流が悪くなってしまう状態、これを心筋虚血というが、この場合多くは心電図に特徴的な変化が現れる。しかし、都合が悪い事にペースメーカー波形ではそういった変化が分かりづらい。すると必然的に、症状が出る以前の心電図との比較が必要になる。  と、そこで冬木はひとつ気になることがあった。  そもそもペースメーカーを挿れているのであれば掛かりつけの病院があるであろうに、何故うちに搬送されて来たのだろう。不思議に思い、雪森が入力した画面を見れば『県外から旅行中』との一文があった。更にその下には、既往歴として『DM』と書かれている。 「糖尿病……」  思わず呟くと、雪森も冬木に同調するような顔をする。 「ん。だから胸の痛み無いってのも何とも言えねんだよな」  糖尿病は血管を傷ませる。故に心筋梗塞のような心血管疾患のリスクが高い。  同時に、血糖値が高い状態が長く続いていると、合併症として神経障害を起こすことがある。通常、心筋梗塞では激しい胸の痛みを感じるが、神経障害のある場合には、その痛みを感じにくいことがあるのだ。 「心エコー頼めますか。ポータブルで」  雪森が目だけこちらに向けて呟いた。こんな場合、エコーで動きを見るのが手っ取り早い。 「勿論です」  直ぐに頭の中で、他に出ている血液検査などとの兼ね合いを考え、検査の段取りを組み立てる。  本来、業務としての緊急検査の項目にエコーは入れられていない。オンコール当番を受け持っている全員が習得している訳ではないからだ。  けれども今、緊急を要する状況で、たまたま自分はその検査を行える技術を持っている。もし打診されなかったら、「エコー機の電源入れてきましょうか」とでも自分から言うつもりだった。  冬木の返事に、雪森が目元を緩めて頷いた。 「レントゲン回ったら一先ずICUに上げるんで、そこでよろしくお願いします」  それだけ言うと、雪森はまた患者の所へ戻り、看護師達に指示を出し始めた。  冬木は検体検査室へと戻ると、処理した検体を機械にセットし、今度は生理検査室へと急いだ。小回りが効く仕様になっていて、移動先での検査に便利なポータブルエコー機を引っ張り出すと、患者の元へと向かう為、エレベーターへと乗り込んだ。  ICUに到着すると、一先ずの処置を受けた患者が病衣の前をはだけて、エコーを待っていた。雪森も傍らにいる。  直ぐに検査に取り掛かった。手早く心臓を描出していく。心臓を横に輪切りにして見たところで、一旦手を止めた。後ろで腕組みをして画面を覗く雪森に、目配せする。  背中側に近い心臓の壁の動きが、明らかに他に比べて悪い。 「ここか」 「はい。駆出率は後で計測しますが、見た目上は五十パーセント程ですかね……僧帽弁での逆流も強いです。心拡大もありますね」  血流を色で表す機能を使い、その様子を雪森に見せる。心臓のポンプとしての働きに重要な、左側の部屋を区切っている弁で大きな逆流が起こっていた。  大まかに状態を把握すると、雪森はその場を離れ、ナースステーションで電話をし始めた。循環器の医師にコンサルトしているのだろう。  再びエコーの画面へと目を戻す。見たところ、弁を心臓の壁へと繋いでいる部分が切れている訳では無いようだ。ということは、急な心拡大によって弁が引っ張られ、うまく合わさらなくなってしまったのかもしれない。  今の状況でこういった逆流が起きているということは非常に悩ましい。  ただでさえ動きが悪い所為でポンプ機能が落ちている上に、送り出した血液が戻ってきてしまっては、全身への血液供給が不十分になってしまう。更に、肺から心臓へ送られるはずの血液は行き場を無くして渋滞し、肺を水浸しにしてしまう。水浸しの肺では、うまく血液に酸素を取り込むことが出来ない。 「そろそろ血液検査の結果が出るので、戻ります」  冬木は迅速に検査を終わらせると素早く片付けを済ませ、看護師に声を掛けた。こちらに返事をする看護師達の間に、電話をしている雪森がいる。周りの声に気付いたのか、こちらを振り返り、手を挙げる姿が見えた。ほんの些細なその挙動に、心がウズウズと震える。キャスターが古くなって、普段は動かしにくいと思っていたポータブルエコー機が、今はとても調子良く動いているようかのように錯覚した。  検査室に戻ると真っ先に、心筋梗塞の診断補助マーカーとなる項目をチェックした。結果は、予想通り『陽性』。それ以外の血液データを見ても、心筋梗塞の際の数値の動きとして矛盾はなかった。  検体検査を済ませ、エコーの所見をつけ終わった頃、電子カルテ上の救急外来リストに目を遣ると、新たな患者の名前が並び始めていた。本日の循環器当番医に件の男性を託した雪森が、再び救急外来での診療へと戻ったのだろう。  その後も、出される検査をこなす傍らで、あの心筋梗塞の男性が気になってカルテを開けば、バトンを受け取った医師による記述が増えていた。どうやら現在は緊急の心臓カテーテル手術の真っ最中のようで、冬木は男性患者の無事と、順調な回復を祈りながらカルテを閉じた。  それからも急患は途切れず、ようやくひと段落ついたのは朝の四時を少し回った頃だった。  帰宅しても大丈夫なことを確認し終えた時には、思わず体の力が抜けた。こんなに忙しいオンコール当番は久しぶりだった。  白衣を脱ぎ、大きく伸びをして首をぐるりと回す。検査室を出て、ドアに鍵を掛けた。  とても疲れた。しかし、不思議と気持ちの良い疲れだ。  冬木は心臓カテーテルの術後心電図で男性患者と再び対面した時のことを思い出していた。微笑んで礼の言葉を掛けてくれた男性の顔が目に浮かび、胸をひたひたとせり上がって来る喜びを噛み締める。  廊下の突き当たりの大きな窓から差し込む朝日が寝不足の目には眩しいが、とても綺麗で爽やかだ。キラキラと窓ガラスを抜けてくる陽光が、検査室の冷房で冷え切った体を暖かく包んでくれるようだった。  そんな冬木の耳に、淀みのないテンポで階段を登ってくる足音が聞こえてきた。その音の主が、白衣を翻し廊下へと出て来る。雪森だ。 「おつかれ」 「……っ、あ、えっと、お疲れさま」  完全に油断していたところへ突然登場したその姿に、あからさまに動揺の滲んだ挨拶を返してしまう。  しかし、これはチャンスじゃないだろうか。周りには自分達以外、誰もいない。話し掛けるのなら今だ。  ところがそう思った矢先、雪森の院内PHSが早朝の静かな空気を震わす電子音を響かせた。  すかさずポケットから機体を取り出した姿に、話し掛けるタイミングを失ったと思った。意気込んでいた反動から、肩ががくんと落ちる。  しかし互いにすれ違う瞬間、落ち込む背中に触れたのは、思いがけない温もりだった。それはポンと一瞬触れて、すぐに離れた。 「ありがと、助かった」  横を流れるように通り過ぎる長身が寄越した一言を、耳はしっかりと拾った。  冬木が振り返った時には、雪森は既にこちらに背を向け、通話しながら歩き去って行くところだった。向こうを向いたまま手を挙げる仕草が、気障にならずに様になるのが雪森らしいと思った。  背中に手を回し、今しがた触れられた所に重ねる。その場所からじわじわと周囲に熱が広がっていくようだった。改めて、雪森に対する自分の気持ちがどういった種類のものなのかを思い知らされる。  一方で雪森の言葉に、恋愛感情は抜きにして彼の役に立てたのだという嬉しさも真に胸に溢れていた。自分の役割を全うすることで、雪森の——医師の役に立ったということは、すなわち患者の役に立ったということだ。それが堪らなく嬉しい。  たとえ冬木がエコーを出来なかったとしても診療自体には影響しなかっただろう。きっと雪森が自分でエコーをやっていた。けれども今回は冬木がその仕事を担ったことで、その間、雪森は医師にしか出来ない仕事を時間のロスなく出来ていたはずだ。医師、看護師、技師——あの時あの場にいた全員が自分のすべき仕事を全うし、診療が円滑に動いていた。それがとても気持ち良く、心は晴れやかだった。  そう感じたら、なんとなく、何の根拠も無いけれど、自分はもう大丈夫かもしれないと思えた。  失恋の痛みは直ぐには消えないだろう。しかし今ならもう、自分なりの自然な距離感で雪森と接していくことが出来る気がする。  始業時間まではまだ数時間ある。再び呼び出しが無ければ、少しは仮眠がとれるだろう。  今日も暑くなりそうな気配に目を細め、まだ気温が上がる前の、少ししっとりとして涼しい空気を胸一杯に吸い込みながら、冬木は家路についた。
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