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昼休みに出会った彼が何者なのか。それを知る機会は、早くもその日の午後に訪れた。
「そろそろ心エコーの検討会が始まるよ〜」
よく通る声で、北野が皆に声を掛ける。
予約の検査が落ち着いた十五時過ぎ、PCモニターの周りに並べられた椅子に生理検査室の面々が集まって来た。
検討会は循環器内科部長の発案で始まったもので、技師達のつけた所見と医師の見立ての擦り合わせや、検査後の患者の経過などを報告したり話し合ったりする。エコーを見る目や、レポートを書く技量の向上を目的とした会だ。
「おつかれー」
循環器の医師達四人がぞろぞろと部屋に入って来た。
北野と立ち話をしていた冬木は、思わず、あっと声を上げそうになった。見慣れた顔に続いて最後に入ってきたのが、駐車場で見かけたあの人物だったからだ。
冬木が驚いていると、循環器内科部長の原が、北野の方にやって来て声を掛けてきた。
「北野さん。もう顔合わせたことあったかと思うけど、こちら後期研修医……今は専攻医って呼ぶか。内科専攻の雪森くん」
原の横で、雪森と紹介されたその男は軽く頭を下げた。
「雪森誉です。よろしくお願いします」
「先週まで内分泌の方にいたんだけど、今週からローテーションで循環器に来たからよろしくね」
原は簡単に雪森の紹介を済ませると、「そういえば北野さんに聞きたかったんだけど」と何やら、出入りしている医療機器メーカーについての話を二人でし始めた。
すると雪森はさりなげなく原達から離れ、他の医師達の立ち話の輪の中へと入っていった。冬木も話の邪魔にならないよう、その場を離れ椅子に座る。
腰を落ち着けると、冬木はさり気無く雪森の方を伺った。
外で見た時は座っていて分からなかったが、かなり背が大きい。座高が低くて脚が長いのだろう。着ているものは他の医師と大差は無いのに、随分スタイリッシュに見える。同性から見てもかっこいい体格だと思った。
「僕、今日が初めての参加なので緊張します……」
ぼんやりと雪森を見ていたところにポソッと聞こえた、心細そうな声に横を見る。今年入職した新人の滝元だ。
新卒の滝元は冬木の五歳下で、明るく素直な性格で皆に可愛がられている。いつもは、そばかすの目立つ色白の頰をくいっと上げ朗らかな笑顔を見せてくれる彼だが、今は萎れたように元気がない。
「滝元くん、最近まで検体検査の方に行ってたもんね」
「はい。病院に入ってからまだ先生方とあまり関わったことがないので、緊張が凄くて……ソワソワします」
「先生もいきなり難しい話は振らないだろうから。リラックスして参加するといいよ」
そう言って笑い掛けると、「やっぱり話は振られるんだ……」とすっかり身を縮こませてしまった。緊張を和らげようとしたつもりが、フォローにならなかったようだ。
滝元は冬木と同じ生理検査所属だが、先週までは別のセクションにいた。これから先、オンコール当番に加わるに当たり一人で一通りの緊急検査が出来るよう研修を受ける為だ。
一口に臨床検査といっても、その内容は多岐にわたる。
この病院でも数多くの検査に対して、血液・一般・生化学・細菌などを調べる検体検査、心電図やエコー、呼吸機能など患者の体を直接検査する生理検査、採取された細胞や組織を調べる病理検査など、部門を分けて対応している。もっと大きな病院になれば更にその種類は多くなる。
広く技術を習得出来るよう、全ての部門をローテーションさせるという施設もあるが、冬木の所属する検査室では、各々の専門性を高めるという名目で所属を決める形がとられていた。
「おっ、初めて参加の子もいるね」
椅子に腰掛けながら部屋を見渡した原が、滝元に目を止めた。
外見こそ、ロマンスグレーに細いメタルフレームの眼鏡がやや神経質そうな印象を添える原だが、中身は気さくな話好きで、こうして新人が入ってきた時などは真っ先に声を掛けてくれる。
滝元は硬い動きでぺこりと頭を下げたが、肩に力が入っているの伝わってきてなんとも初々しい。
「今日は全員揃ってるね。さっき北野さんには紹介したんだけど、聞いてなかった人もいると思うし、改めて紹介するね。こちら、雪森くん。はい、自己紹介どうぞ」
雪森がその場に立ち、簡単な自己紹介と挨拶をした。
院内では珍しい若い医師ということもあり、盛り上がったベテランメンバーから質問が飛びかった。
出身は隣県で、歳は二十七だという。冬木と同い年だ。
雪森は、寄せられる質問に落ち着いた声で一つ一つ丁寧に答えていた。無言でいると気怠げな雰囲気が漂うが、話すとそうでもないようだ。
ひとしきり経ったところで、原が手を打って皆の注意を引いた。
「はーい、じゃあそろそろいいかな? 今週の検討会始めますか」
「お願いしまーす」
原の呼び掛けに、技師達の声が重なる。
気になる症例にはその患者を担当している医師から解説が入るが、今週は特筆すべき症例が少なかったこともあり、サクサクと滞りなく会は進み、予定よりも早く終了となった。
「やっぱりボロボロになりました……」
メンバーがそれぞれ各自の持ち場へと戻っていく中、滝元は肩を落として項垂れている。
「でも滝元くん、教科書に載ってることは大抵答えられてたじゃない。立派立派」
北野から肩をぽんぽん叩かれ励まされる様は、まるで何か一試合終えてきた者のようだ。
会の最中に、「おっ、新卒か。じゃあ国家試験の復習な〜」などと原から様々質問を浴びせられた結果である。
そんな滝元を見て自身の新人時代を思い出していると、後ろから「おーい」と声が響いた。
「北野さーん。ちょっといいかな」
声の主は原だ。とっくに部屋を出たものと思っていたが、後ろにまた雪森を連れている。
「雪森くんのことなんだけど。彼、お腹のエコーは自分でもやってるんだけど、心臓の方は殆ど経験ないんだって。折角だから、明日にでもちょっと検査見学させてもらってもいいかな?」
「はい、勿論。なんだったら今うちの若いのとエコーやっていきますか? 検査の予約入ってないんで」
そう言って北野がこちらに目を合わせてくる。原は「おっ、いいじゃん」と上機嫌だ。
「雪森くん、折角だしそうさせてもらえば? 一之瀬くんとは歳も一緒で丁度いいじゃん。雪森と冬木ってなんか名前がペアっぽくていいね」
わははと笑いながら指名され、突然の展開にたじろいだ。名前がペアっぽいからって、その理由はなんなんだろうか。
「じゃあ一之瀬くんにお願いしようかな。僕が胸貸すわ。昨日オンコールだったから、途中で寝ちゃったらごめんだけど」
北野が胸を叩いて笑う。
「雪森先生、昨晩お疲れ様でした。ほとんど寝られてないんじゃないですか?」
「いや、隙をみて仮眠とってたんで。昨晩は検査ありがとうございました」
北野との会話から、雪森が昨日の当直医だったことを知った。見かけた時の眠そうな様子はその所為だったのか。
「いえいえ、それが仕事ですから。あ、ついでと言っちゃあなんですが、うちの新人も見学させてもらってもいいですかね。滝元くん、一緒においで」
歩き出した北野に続き、ぞろぞろとエコー機のある部屋へと移動する。
大人の男四人が入ると、部屋の中は随分窮屈だ。
エコーの画像が見やすくなるよう部屋の照明を絞ると、北野が冬木の方を向いた。
「じゃあ、一之瀬くんお願いね。滝元くんもいるから、軽く説明しながらやってもらってもいいかな」
「はい」
北野が上を脱いでベッドに横臥すると、冬木はその横に腰掛けた。エコーのプローブを手に取る。
雪森と滝元が後ろに並んだ。
「この、患者さんに直接当てるやつがプローブね。ここから超音波が出てて、体の中のものに当たって跳ね返ってきたのを機械が解析して、画像を作ってくれる仕組み」
プローブに超音波検査用ゼリーを絞り出す。
「超音波は空気で遮断されちゃうから、プローブと患者さんの体の間に隙間が出来ないように、このゼリーを塗ってね」
プローブを北野の胸へと当てると、エコー機のモニターに白黒の心臓が映った。規則正しく、縮んでは拡がるのを繰り返している。
「お〜、元気元気」
首を捻って画面を見上げた北野が笑う。
雪森に機械の各種ボタンの位置や操作手順を伝えつつ、ルーチンで検査している手順で、心臓を各断面から描出していく。
雪森の横では、滝元が教科書と睨めっこしながら懸命に像を追っていた。
「滝元くん、学校でも習ったと思うけど、これが四腔像。心臓の四つの部屋が映ってるでしょ?」
「はい」
「この中でも左側の大きい部屋——左室が、心臓がポンプとして働く為に重要だってことは知ってるよね?」
滝元が頷く。
「じゃあ、もし心筋梗塞なんかになって、ここの動きが悪くなるとどうなる?」
「全身に血液を送れなくなります」
「そうだね。送れなくなったらどうなる?」
「えっと……死にます」
「うん、最終的にはそうなるね。脳を含めて、体に血液をうまく送れなくなるってことだから。心臓の動きって言われたら、僕たちは左室の動きを第一に評価する。ポンプ機能の指標として、駆出率を計測するのもここだよね」
左室の輪切り像を見せた後、計測手順も見せながら一通り説明していく。
と、つい滝元への説明に集中してしまい、雪森の存在を忘れていたことに気付いた。慌てて雪森の方を振り返る。
「すみません、うちの新人の指導になっていましたね」
雪森は既に知識があるだろうし、退屈で眠くなってしまっているんじゃないかと思いきや、意外にも真剣な表情で真っ直ぐモニターを見つめていた。
「いや、全然」
本当に何とも思っていなそうな顔をして、雪森が答える。
操作方法も含めて説明はひとまず済んでいたので、冬木はプローブを機械のホルダーに戻すとベッドから立ち上がった。
「僕の方からは一通り説明が終わったので、雪森先生どうぞ」
先程まで座っていた場所を雪森へと譲る。
北野はいつの間にかイビキをかいて眠っていた。自分でも眠るかもとは言ってきたが、昨晩は相当に忙しかったことが伺える。例え出ずっぱりで寝られなかったとしても、翌日も通常通りの出勤なのがオンコール体制の辛いところだ。
直接患者を診ている医師は技師以上に眠れないはずだが、それでもこうして業務と研修をこなすというのは本当に大変だなと目の前の雪森を見ながら思った。
「これ、画面はこのまま始めて大丈夫です?」
「あ、はい」
突然振り向かれ、どきりとした。
「もし機械の操作で分からないことがあれば声、掛けてください」
雪森は一つ頷いて、プローブを手に取った。
経験がないと言っていた心エコーだが、勘がいいのかすいすいと心臓を描出していく。
しかし四腔像になると、プローブを持った手が彷徨うような動きになった。
「出しにくいですか?」
「そうですね……」
「痩せた体型の人は、心臓が立ったような状態になっていて、描出しづらいことが多いんですよね」
こちらからだとどうですか、とプローブを当てる場所を助言してみる。しかし中々、鮮明な像は得られない。
「では、これでは……」
何気ない自分の行動に、意識が追い付いていなかった。右手にふわりと移った温もりに、ハッとする。
プローブを当てる角度について、微妙な調整を口で説明するのは難しい。あともう少しで描出出来そうなもどかしさから、ついプローブを握る雪森の手に、上から手を添えていた。自然、体の距離も触れそうな程に近くなる。
自ら手を伸ばしたにもかかわらず、直に触れた他人の体温に少なからず動揺していた。早く手を離そうと焦ってプローブを動かすも、いまだモニターに映る像はボンヤリだ。
そんな時、腕の方にずり下がった白衣を直そうと、雪森が自分の襟元を掴んで引っ張り上げた。
弾みで白衣の内側の空気が飛び出し、冬木の鼻先を掠めた。爽やかなグリーンの香りだ。
勤務中の香水は禁止されており、つけてはいないはずだ。ということは、これは雪森自体の香りということだろうか。
他人のパーソナルスペースという非日常的な空間で触れた香りだからだろうか、妙にそわそわした。
これまでの新人教育の際にも向こうから頼まれ、同様に手を添えて指導したことはあったが、こんな気分は初めてだった。同年代であっても、相手が医師であるという、職場での立場の違いによるものもあるかもしれないが、冬木は心の中で首を傾げた。
「あ、出ましたね」
画面を見守っていた滝元の言葉に、思わず肩が跳ねた。モニターの外へと飛んでしまっていた意識が引き戻される。
「ありがとうございます」
雪森がちらりと目だけをこちらに向けて呟いた。照明を落とした薄闇の中で、瞳がモニターの光を反射している。チラチラとした光に、目が吸い寄せられて、直ぐに逸らすことが出来なかった。
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