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翌日、約束通り雪森は検査の見学にやって来た。
昨夜は当直ではなかったはずだが、どこか気怠げな雰囲気を纏ったところが変わらずなのをみると、それが彼のデフォルトなのかもしれない。
「じゃあ今日も冬コンビで」という北野の指示で、昨日同様、共に動くこととなった。
「お願いします」
「こちらこそ」
挨拶を交わすと、すぐに予約の検査に取り掛かった。
病院の一日の中でも、特に午前の時間帯は忙しい。外来診療の検査をメインとして、予約がみっちりと詰まっている。
次々とやってくる患者に、雪森と言葉を交わすことも殆ど無かった。患者の入れ替えの際は雪森もカーテンの外に出て、検査が始まるまで待機している。そういった時の合図はアイコンタクトで済んだ。
忙しさの中にいると時間が過ぎるのはあっという間で、午前最後の患者を送り出すと、ようやく雪森とまともに口をきいた。
「今ので午前の分は終わったんですが、先生はどうされますか?」
「だったら戻ろうかと」
「わかりました。おつかれさまです」
挨拶すると、雪森がじっとこちらの顔を見た。
「昨日から不思議に思ってたんですけど——」
「なにか?」
「なんでクールな美人て呼ばれてるんですか?」
「......は?」
「呼ばれてるの不思議に思って。俺はそうは思わないんで」
これまで当たり障りのない会話しかしていなかったというのに、あまりの突拍子の無さに返す言葉が見つからず、雪森の顔を見たまま固まった。
渾名についてはおそらく、冬木を新人時代から知る原あたりから話を聞いていたのだろう。
雪森の言葉をどう解釈していいか分からなかった。大した容姿でもないのに、美人と呼ばれることの意味が分からないということか。胸の奥を冷たい手で引っ叩かれたような感覚の一方で、顔は羞恥で一気に熱くなる。
美人だかなんだかしらないが、もともと自分でも不釣合いだと思っている呼称を弄られたことが何とも言えず居た堪れなかった。自分から名乗った訳でもないのに、そこを突かれるのは不条理さすら感じる。
赤面しながら鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする冬木を見て、雪森は面白いものを見たとでもいうような表情をした。冬木は眉間に力が入りそうになるのを必死で堪える。
「……それは、ご期待に添えずすみませんでした」
弄られたことよりも、それに対する反応を面白がられたことが腹立たしくて、声が震えそうだった。
「いや——」
そんな冬木を見て、雪森がなにか口を開きかけた時、副主任が突然部屋に顔を出した。
「救急から、心不全が来るって連絡来たからこっちのエコー機使わせて! ストレッチャーで来るよー」
「あ、はい」
「私が今日の昼休み中の検査当番だから、このままその人につくね。一之瀬くんは休憩入っていいよ」
「わかりました」
一刻も早くここから出て行きたいと思っていたので、その場で副主任に部屋を譲った。
「来ましたー! お願いしまーす!」
冬木と入れ替わるかのようなタイミングで、ガラガラとストレッチャーを押して急患室の看護師達が入って来た。
背を上げたストレッチャーに、上半身を起こして凭れかかっている男性が見える。
スタッフ廊下からは滝元が顔を覗かせていた。
「滝元くんどうしたの」
雪森から顔を背けるように声を掛けた。
「主任から、心不全のエコー見学させてもらってこいって言われました」
声をひそめて会話を交わす。
「なんで患者さんは上半身起こしてるんですか?」
「横になると苦しいんだよ」
「?」
「起坐呼吸って言うんだけど、心臓のポンプが弱ってる時に、水平に寝ちゃうと苦しいんだ。今まで重力で足の方にあった血液が、一気に心臓の方に戻って来るとあっぷあっぷしちゃうから」
へぇ〜という顔をして聞いている滝元の横から、今度は原が出て来た。今日は外来日では無い為に、急患の対応についたようだ。
「例の心不全、もうこっち来てる? 俺も一緒にエコー見るわ。あ、丁度良かった。雪森くんもこっち来て。ここ終わったら、患者さんと一緒にICU上ろう」
「はい」
返事をした雪森が、冬木の方を見た。
「ありがとうございました」
先程のやり取りなど無かったかのような顔をして一言いうと、雪森は横をすり抜けて行った。
急患が入って来た慌ただしさでうやむやになってしまったが、雪森はあの時何を言おうとしていたのか。冬木は酷くもやもやとした気持ちのまま、その背中を見送った。
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