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 ガヤガヤと賑やかなビアホールに、料理とホップの香りが漂っている。  テーブルの上に並ぶのは、色も形も様々なソーセージ。その脇には、プレッツェルや普段あまりお目に掛からないような珍しいパンが添えられ、ジャガイモ料理からは食欲をそそる美味しそうな湯気が上がっている。  ジョッキにたっぷりと注がれたビールが運ばれてくると、その登場を待ちかねていた皆の歓声が上がった。  ドイツビールと、同国の郷土料理が自慢の店が、本日の飲み会の会場だった。  「循環器飲み」と題された会には、循環器診療や治療に関わる部署が参加しており、医師や病棟スタッフ、放射線科やオペ室などの面々が楽しそうに酒を酌み交わしている。勿論、生理検査室もそのメンバーだ。  いま、冬木は冷たいビールをちびちびと舐めながら、窓の内側から見えるこの店のネオンサインをぼんやりと眺めていた。  もともと、飲み会自体は割と好きな方だ。アルコールが入って滑らかになった口から、普段は聞けない面白い話が聞けたり、近寄り難いと思っていた人とも案外気軽に話せてしまったりする。周りの高揚した空気感も楽しい。  しかしながら職場の飲み会となると、話は少し変わる。自分のペースで飲みづらいというのが理由だ。  勧められる酒を断るのが下手くそな上に、酔っても全く顔に出ず白々したままな為、「飲んでる?」と酒を注がれてしまうことはしばしばだし、「酔っているので」の決め台詞が「またまた〜」と流されてしまって全然通じない。  極端に酒に弱い訳ではないし、乱れたりする訳でもないのだが、問題なのは体調だ。いかんせん頭痛になりやすい。  毎回体調のことを言うのも周りに気を遣わせてしまいそうで気が引け、今では「出来るだけコップを空けない」という回避法でやり過ごす術を身に付けていた。  今も乾杯直後の一気にグラスを傾ける空気から外れた場所で、皆の輪に入っていくタイミングを伺っていた。それぞれが各自のペースで飲み始める頃合に加わっていく位がベストだ。 「雪森先生、乾杯しよー!」  盛り上がっている斜め向かいのテーブルに目を遣ると、雪森がオペ室の主任とジョッキを合わせている所だった。  気付くとつい、雪森の場所を確認してしまう。可能な限り関わりを避けようとすると、どうしてもその動向に目がいってしまうのだ。  先日の見学の日から、冬木は彼を警戒するようになっていた。  もともと怒りを持続出来ないタイプということもあり、揶揄われたのではという腹立たしい気持ちは時間と共に収まっていたが、雪森がどういう意図を持ち、何を考えてあのような発言をしたのかが不明なのが不安だった。こちらとしても、そんな相手に対してどう出ればいいのか分からない。  今もちらちらと動向を伺っていると、遠くの人と乾杯する為に席を立つ姿が目に入った。  今日の雪森の私服は、黒い薄手のVネックニットにインディゴのストレートジーンズというシンプルなもので、Iラインのシルエットが元来のスタイルの良さを際立たせている。 「雪森くん、ナースステーションで見かけると目が半開きの時ちょいちょいあるけど、中々イケメンなのよね」 「ねー、雪森先生って彼女いるの?」 「おいおい、それセクハラになるぞ〜」  乾杯が済んだと思ったら、いきなり雪森の彼女のことで話が盛り上がっている。  無意識に耳をそば立てている自分に気付いて、なんとなく居心地の悪さを感じた。 「いないですよ」  雪森はさらっと返した。テーブルの面々が、意外そうな反応をする。  いないのか——そう頭の中で呟くと、「そりゃ、あんなことを言ってくる人だし」という思いと、「意外だ」という思いが絡み合う。 「いないんだ〜」  いつの間にか横に来ていた滝元の声に驚いて、ビールを噴き出しそうになった。 「滝元くん……びっくりした」 「あ、すみません。いや、彼女いないって意外だなと思いまして。凄いモテそうじゃないですか。他部署の同期の女の子達も、雪森先生かっこいいって言ってますもん」 「そうなんだ」 「普段は眠そうなのに、処置してる時とかはちゃんと目開いててかっこいいって」 「ふふ、なにそれ」  思わず笑ってしまったが、悔しくも少し分かる気がした。普段は重そうな瞼で隠れているが、雪森には独特の目力がある。初めて会った時に見た、こちらを見上げる瞳が今も脳裏に残っていた。 「というか、一之瀬さんだって人気ですよ。主任が言ってたクールビューティーって呼び方が他部署の同期にも広まってます」 「えぇ……」  それはちょっと、いや、本当に勘弁して欲しい。 「……仰りたくないなら全然いいんですけど。実は一之瀬さんに彼女がいるのか聞いて来てくれって頼まれてるんです。聞いてもいいですか?」 「いいよ。いません」 「えっ、それも意外です」  彼女がいないのは事実だ。就職してからは一度もいたことが無い。  病院に勤めていると言うと、出会いが沢山あると思われがちだ。確かに圧倒的に女性の多い職場ではあるし、アプローチが来ることも無くはないが、冬木は職場恋愛を躊躇していた。  学生時代に付き合った女の子がいたこともあったが、そのどれもが振られるか自然消滅かで、長く続いた試しがなかった。  今の病院のことはとても気に入っているし、長く勤めたいと思っている。そんな冬木にとって、恋愛絡みのいざこざの為に職場でやりづらくなるような事態は避けたかった。  しかし出会いを外に求めたところで、病院と家との往復のような生活の中にそんなものはある筈もなく、結果、入職から彼女がいないまま今に至っている。 「欲しいとは思わないですか?」 「うーん、あんまり思ってないのかもしれない。思ってればきっとなにか行動に移してるんじゃないかな。社会人サークル入るとか、合コン行くとか」  自分のことなのに他人事のような言い草になってしまう辺り、やはり今の自分にはそういった欲が無いのかもしれない。  その時、隣に誰か来た気配と共に、いつかの記憶の中にあった香りがふっと鼻先に届いた。これは何の香りだったか。  椅子を引く音に横を見ると、そこにいたのは向かいのテーブルで談笑していたはずの雪森だった。手にはグラスを持っている。  冬木は反射的に身を固くした。 「あ、雪森先生。どうぞ」  滝元が雪森の前に飲み物のメニューを差し出した。 「集中攻撃がやべえから逃げて来た」  悪戯っぽく笑いながら、雪森がメニューを受け取った。清潔なグリーンの香りに、アルコールの匂いが混ざる。口調もこれまでより随分砕けたものだ。 「先生、向こうのテーブルで質問攻めされてましたもんね」  先日の検討会では酷く緊張していた滝元だが、アルコールのお陰か、今日は随分口が滑らかだ。 「おーい、雪森逃げんなー」 「怖くないから戻っておいで〜」  先程まで雪森がいたテーブルの皆が、笑いながら呼んでいる。 「にげまーす」  グラスに口を付けながら、雪森がしらばっくれたように答えた。  すると、テーブルの中の一人が思い付いたように滝元に向かって手招きした。 「じゃあ、新人滝元くんをこちらに貰おう!」 「滝元くん、おいで〜」  突然の指名に驚いた顔の滝元だったが、「僕でいいのかな」などと照れた笑顔を浮かべながら席を立った。  しかし、滝元がいなくなるということは、このテーブルに残るのは自分と雪森の二人だけということだ。それは正直言って避けたい。  「えっと……」  何か席を離れる口実を捻り出そうと口を開きかけた時、なにやら真面目な顔をした雪森がこちらを覗き込んできた。 「ちょっと聞いていいか」  突然の改まった態度に、一体何を聞かれるのかと身構える。 「あの時、怒らせた?」 「え……」  一瞬何のことかと思ったが、直ぐにあの「俺はそう思わないんで」発言の後のことを言っているのだと分かった。 「嫌な気持ちにさせたんなら、謝る。悪かった」  まさか謝られるとは思わなかった。どうしていいか分からず、そわそわ手元のグラスを口へと運ぶ。雪森の顔を真面に見られない。 「いえ、僕としても、なんでああいう……その、美人とか言われるのか謎に思ってるので。褒めるにしたって、せいぜい十人並がいいとこでしょう」  居た堪れなさに、一度言葉を切った。この場から逃げてしまいたい。 「——なので、雪森先生がそう思わないっていうのは当たり前なことかと。本人が一番、おかしいと思っているわけですし」  そこまで言うと、怖々雪森の顔を見た。予想外に、きょとんとしている。 「え? そっち?」 「はい?」 「俺がそう思わないって言ったのは、『クールな』の方なんだけど。いや、勘違いさせてたんなら悪い」  そっちか! と思うやいなや、顔にとんでもない速さで熱が集まってくるのが分かった。きっと、見た目にも真っ赤になっているに違いない。 「クールって感じではなさそうじゃん、本当は。だから何でだろって思ってて」  熱い程の顔の火照りをどうにかしようと、グラスの氷水を一気飲みする冬木を、雪森が面白そうに見ている。 「まぁ、でも確かに美人てより、可愛い系かもな」  思わず水を噴きそうになる。 「おもしれー。なんで皆んなから、クールキャラだと思われてんの?」 「こっちが聞きたいです。入職した時から、落ち着いてるとかそういうふうに言われて、なんかそれを裏切らない方が良いのかなって思ってたら……」 「路線変更出来なくなった、と」  言葉の続きを雪森が引き取った。  ——一之瀬くんは歳の割に落ち着いているね。  ——すごくしっかりしてそう。  ——見た目がさ、クールって感じだから。  入職してすぐ、職場の人達から言われた言葉の数々が頭を過ぎる。  それらは、関わりの多い人からそうで無い人達にまで伝播して、冬木の預かり知らぬ内に自分のイメージとして完成してしまっていたようだった。  その頃はまだ、社会に出たばかりで職場での立ち回り方もよく分かっておらず、訳もなく周りの空気に合わせなければという気持ちが強かった。一ヶ月、半年、一年とずるずる時間が過ぎる程に、既に出来上がってしまったキャラクターを変更することが気持ち的に難しくなっていく。まさに雪森の言ったままだ。  冬木はこくんと頷くと、飲み干したグラスにピッチャーから水を注いだ。新しい水の中で、溶けた氷が居心地悪そうにゆらゆらしている。 「まぁ、思えば大学入った辺りからそういう傾向はあったんですよね」 「ふーん?」 「あまり自分から人の輪に入っていけない方なんですけど、それって多分、自分を晒すのが苦手なタチってのもあると思うんです」  口が乾いて、またグラスに唇を寄せる。 「子供の頃はそうでもなかったはずなんですけど。大人になってからの根暗というか……まぁ、元々内に籠るタイプではあったのかもしれませんが」  今まで誰にも言ったことのないような話を、最近知り合ったばかりの、そればかりか警戒心さえ持っていたような相手に打ち明けているのは何故か。自分でも訳が分からない。 「まぁ……今の状況に関しては訂正出来ない僕が悪いんです。勇気が無いというか」  グラスに浮いた結露が流れて、不安定な線を描きながら底に辿り着いた。 「勿体無い気するけどな」  返ってきたのは予想外の言葉だった。どういうことかと聞こうとしたが、「てかさ」と雪森に遮られる。 「敬語やめない? 同い年だろ」 「はぁ……」  突然の提案に、口から気の抜けた返事が漏れる。 「堅苦しいの嫌だし。だめ?」 「いや、駄目ということは……」 「じゃあ決まりな」  ぐいぐい話を進められ、つい頷いてしまった。先程から雪森のペースに呑まれてばかりだ。  けれども一つ、これだけは聞いておきたいということがあった。意を決して口を開く。 「あの……聞いてもいいで……じゃなくて、いい? なんで俺のこと、キャラ違うんじゃないかって思ったの?」  言われた通り、敬語をやめてみた。一人称もプライベートの「俺」にする。  雪森が満足げに微笑んだ。 「俺、よく病院裏のコンビニの駐車場に車駐めて、休憩したり夕飯食ったりしてるんだけど」 「……?」 「病院の敷地から出てくるところ見かけてたんだよ。一人で出てきた途端、急に気ぃ抜けた顔になる人いて、おもしれーなって思って見てた」  そんなところを見られていたのか。また顔にじわじわと血が集まってくる。 「原先生に生理検査室連れて行かれる時、あそこにはクールな美人がいるぞって言われたから、どんな子かと思ったら女じゃなくてあの気の抜けた顔してた人なんだもんな」 「それ、原先生に揶揄われたんだよ……見た時がっかりしただろ?」 「いや? あのおもしれー人、職場じゃクールキャラなんだって思って笑い堪えるの大変だった」  そんなふうには見えなかったが。 「喋ったら喉乾いたな」  雪森は持っていたグラスを飲み干すと、ホールスタッフを呼び止めた。 「そっちは?」 「いや、俺は……」  いつの間にかグラスが空になっていたが、もう止めておきたくて断る。  いつの間にか、酔いが回って来ていた。間がもたなくて、気付けばついグラスに口を付けていたのが今になって効いてきたようだ。  雪森はそれ以上勧めることはせず、メニューを閉じてくれた。 「酔うと、唇よく触るんだな。赤くなるぞ」  ギョッとした。確かにそれは冬木が酔ってきた時の癖だったからだ。  付き合いの長い友人や家族以外から指摘されたことは初めてだった。そもそも普段、酔っていると気付かれること自体、殆どない。  雪森は、割と人に対する観察力が鋭いのかもしれない。 「おっ、冬コンビ! 同い年同士、親睦を深めているわけか!」  突然、ビール片手の原が間に入り込んできた。 「一次会の時間はまだあるけどさ、これ終わった後、皆んなでカラオケ行こうって話してんのよ。君らも一緒に行こうぜ」  どうしようかと、冬木は返事にまごついた。なんとなく、頭が気持ち悪い感じがしている。  痛くなるかならないかの瀬戸際といったところで、どっちに転ぶか分からない。正直、あまり気が進まなかった。 「滝元くんも来るんだけど、一之瀬くんいないと心細そうだから来てやってよ。雪森くんも、今日は病棟で危なそうな人いないし、おいでおいで」 「はい」  すると、冬木の同意も促すかのように、こちらを見ながら雪森が頷いた。 「一之瀬くんどうする?」  こうなるともう断り難い。  原の呼び掛けに、冬木も緩く頷いた。
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