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「はー、緊張しました」  一曲歌い終えた滝元が、両手で持っていたマイクを下げ、ほっと息をついた。  主に各部署の若手が集まった二次会で、新入りは自己紹介を兼ねて一曲披露させられるという洗礼を受けるのだが、そのトップバッターが滝元だった。 「おつかれさま」  拍手をして労う。緊張で喉が乾いていたのか、滝元は腰掛けると手元のドリンクを一気に喉に流し込んだ。 「こんなこともあろうかと、密かに歌を練習していて良かったです」  ひと心地ついた滝元が、遠くの席にいる雪森を見遣った。 「そういえば、一之瀬さん、いつの間にか雪森先生と親しくなってたんですね」 「ああ……うん……?」  あれは親しくなった内に入るのだろうか。返事が歯切れ悪くなる。 「一次会の間、随分話してたなと思いまして」  確かに、あの後も取り留めの無い話をぽつぽつとした。  どうやら、雪森は素の自分の方に興味を持ってくれているようだった。  それに、自分が職場で抱かれているイメージの人間では無いことを分かった上で、それを「勿体無い」とまで言ってくれていた。揶揄っている風ではなかった。 「雪森先生、話してみると見た目とちょっと違いますよね」 「そうかもね……」  外見と中身の差なんて、案外こんな何でもない一言で済ませられてしまうものなのかもしれない。  自分だって、始めから変な外面を被っていなければそれで良かったのだ。そんなことに気付くなんて、全くもって今更なのだが。  そのとき、誰かが入れたロック調の曲が大音量で流れ始めた。 「ごめん、ちょっと」  頭に響いてくる音に、思わず眉を顰める。滝元に声をかけ席を立つと、冬木はトイレへと向かった。  先程からカラオケルームの籠った空気に息苦しさを感じ始めていたが、廊下に出るといくらか気分が楽になって、ほっと一息つけた。  しかし頭痛は確実に段々と強くなってきていて、今もズキズキと目の奥が痛んでいる。一次会での予感は悪い方に転んだようだ。  トイレに入ると、持っていたハンドタオルを手洗い場で濡らし、目の周りに当てた。  ひんやりとした冷たさがアルコールで拡張した血管を縮め、頭痛の不快感をいくらか楽にしてくれる。  と、その時、トイレの出入口が開く音がした。誰かが中に入って来て、横に立ち止まった気配がする。 「どうした?」  思わず大袈裟に肩が跳ねた。目を隠していても、声でそれが誰なのかが分かったからだ。  驚いた拍子に目元に載せていたタオルがするりと下に落ちかけたのを、その人がキャッチする。 「……っ、おつかれさまです」 「おつかれ。で、どうした?」  雪森がタオルをこちらに差し出しながら、先程と同じ問いを繰り返した。 「……少し飲みすぎたかな、と」  嘘をついたところで何にもならない。冬木は正直に申告した。 「大丈夫かよ」 「少し頭痛がしてきただけ。大声出すと頭に響くけど、静かにしている分には大丈夫」  雪森が思案げに顔を覗き込んでくる。 「あの時、断りづらくして悪かったな」  原先生に誘われた時のことか。 「いや、最終的に行くって決めたのは自分だし」  温くなってしまったタオルをもう一度水に通し、絞る。  その横で、雪森が無造作に髪をかき上げた。雰囲気のある男はそういった仕草が妙に様になるのだが、心配そうな顔をしているのが少し気になる。  目の前で具合悪そうな様子を見せてしまい、雪森に変に気を遣わせてしまったのかもしれない。 「俺、トイレ済ませたら戻るから」  そう言って、個室のドアに手を掛けた。他に使う人が来ないようなら、もう少し目を冷やしていたかった。 「……ああ。先戻ってる」  冬木が個室に入ると、扉の向こうから雪森の返事がした。トイレを出て行く音が聞こえ、しかし、すぐにまたドアが開いた。 「もし酷くなるようなら声掛けて」  投げ掛けられた声は、言葉尻が優しい。  再びドアが閉まる音がして、今度こそ雪森は部屋に戻ったようだった。  まだ、目の奥には心臓の鼓動に合わせて脈打つ痛みがうっすら残っている。なんとなく、そのリズムが、雪森と話す前より速くなっている気がした。  冬木が部屋に戻ると、マイクの順番は中堅とベテランへ回ってきていた。 「あ、一之瀬くん戻ってきた。ほら、曲入れて。もう予約リスト空になっちゃったよー」  冬木を見つけて、放射線科の同期が声を掛けてきた。手からデンモクを受け取る。 「ありがとう」  すると、冬木が戻って来たのに気付いたのか、離れた席に座っていた雪森がこちらを見た。  トイレでのやり取りの照れ臭さから、咄嗟にデンモクに目を落とす。  気を取り直し、さっさと歌ってノルマを終えようと飲み会用にしている定番曲を検索した。ところが送信ボタンを押そうとしたタイミングで突然、他の曲のイントロが流れ始めた。 「俺です」  軽く片手を挙げ、席から立ち上がったのは雪森だった。こちらに近付いて来たと思ったらマイクを催促され、持っていたものを手渡す。  雪森が入れた曲は、皆もよく知る国民的バンドのバラードだった。歌い始めると、その場にいた皆が思わず息を呑んだ。めちゃくちゃ上手い。  話をしている時にも密かに思っていたが、雪森は声が良い。歌になると声に艶が出て、色気が加わった。  二次会の始めに新人達が歌わされた場面では、雪森もマイクを握っていた。しかしその時の雪森は音程の起伏の殆どない、短い曲をボソボソッと歌っただけだったのでてっきり歌が苦手なのだと思っていた。案の定、周りからも「雪森、なんで歌上手いの隠してたんだよ〜」などと弄られている。  やんややんやと歓声が湧き、次はこれを歌えだの、あれを歌えだのと忽ちリクエストが渋滞を起こした。冬木が歌う流れになっていたのが、自然な感じで無かったことになっている。  ずらずらと画面に並ぶリクエスト曲の消化作業を始めた横顔を見ながら、冬木はしばらく動きがとれなかった。トイレで雪森に言った言葉が頭に浮かぶ。  ——大声出すと響くけど、静かにしている分には大丈夫。  もしかして、そういうことなのだろうか。あの言葉を気にして、歌わなくて済むようにしてくれたのだろうか。そんな、もし勘違いだったら物凄く恥ずかしいことを考えている自分に狼狽える。  既に時計は夜中の十二時をとうに過ぎ、曜日は金曜から土曜へと変わっていた。  雪森がリクエストを歌い終えた頃、皆の大きな拍手をもって会はお開きとなった。  
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