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 金曜の午後。恒例の心エコー検討会が終わると、参加者の大半はすぐに部屋から掃けていく。  そんな中、使った椅子の片付けをしている冬木の耳に、原の「雪森くん」というフレーズが入ってきた。出入り口の付近に原を含めた医師数人が立っていて、どうやら外来診療や病棟でのあれこれについて話しているようだ。原は診療部長でもあるので、様々な所から情報が耳に入ってくる。こうした立ち話の中で、院内の話題が出るのはよくあることだった。  雪森が循環器内科から別の科へローテーションしたのを境に、院内で関わる機会がぐんと減った。それからというもの、こうして他の人が院内の話をしていると、無意識に耳が雪森の名前を拾ってしまう。 「彼、凄くできる奴なんだけど、見た目っていうか、雰囲気で損してて勿体無いんだよな。黙ってるとさ、なんて言うかレイジーな感じだろ? 不安がる患者さんも中にはいてさ」 「あー、まぁそうっすねぇ。若いから、患者さんによっては尚更不安がられるのかもしれないけど」  原達の話に、胃の辺りがキュッと縮こまった。  何故だか、身内の悪口を聞かされた時のような気分だった。  確かに雪森はその雰囲気から誤解されやすいと思う。尤も、初対面では冬木も彼に対して「なんか怠そう」という印象を持っていた。  しかし、外見や雰囲気から、彼の医師としての技量や矜持まで疑われることがあるとしたら、それには胸が捩れるような気持ちがした。そう思うのは、二度目に雪森が泊まりに来た、翌日の出来事を思い出すからかもしれない。  あの日、冬木は心電図などの検査担当だった。  外来の検査がひと段落した頃、一人の入院患者が病棟看護師から車椅子に乗せられやって来た。その高齢女性は関本さんという名前で、小柄で細い体からは想像出来ない大きな声でよく話す人だった。 「私、昨日入院したのよ。でもね、早く帰らなきゃいけないの。お父さんの世話しなきゃなんないから」  検査の合間に関本が話す内容から推測するに、どうやら旦那さんが認知症で介護の必要があるらしい。それを聞いて冬木は驚いた。 「関本さんが旦那さんをお世話してたんですか? 車椅子に乗りながら、大変じゃないですか」  すると、カラリと笑い飛ばされた。 「あははー、そんな訳ない、ない。入院するまで乗ってなかったわよ。私は必要ないって言ってんだけど、ここでは乗れって言われるからさ」  笑いながら快活に話す関本は、それだけ見れば昨日入院した人とは思えないくらいだ。 「息子と三人暮らしなんだけど、あの子は仕事忙しいから。私が頑張んないとなんて思って、具合悪いのも我慢しちゃってたのね。でも急に、限界って感じになって。そしたらいきなり入院になったもんだから、びっくりしたわ」 「それは驚きましたね。そこからまた様子見せずに、こうして病院に来てくれてよかったです」  声を掛けながら、心電図をつけた。 「では、記録しますから、その間は一旦お話をやめますね。力を抜いて、動かないでいてください」  波形を確認しようと心電計のモニターに目を向ける。すると、心電図波形に気になるところがあった。  ところが本人に既往を訊ねても曖昧で、看護師も電話があったのか席を外してしまっていて確認することが出来ない。  そこで、身支度をしてもらっている間に、冬木はPCに向かい関本の電子カルテを開いた。心電図所見と矛盾しない病名が既往歴に書かれている。場合によっては医師に連絡しようかと思っていたが、その必要は無いようだ。  安心してカルテを閉じようとした時、ふと、続く記述に目が止まった。患者の背景から所見、結論と鑑別までが簡潔かつ整然と記されており、それらを踏まえた方針や計画も明確で非常に分かりやすい。記述者の名前を確認すると、そこには『雪森誉』の文字があった。  前日、雪森が勤務時間を超えて診た患者というのは関本のことだったようだ。病状説明に家族が来るのが遅かったというのは、息子さんの仕事の都合だったんだろうなと見当がついた。  検査を終え、迎えに来た看護師と共に病棟に戻る関本を見送った頃には、丁度昼休憩の時間になっていた。  昼の検査当番が交代を知らせにやってきたので、冬木は売店に行こうと部屋を出た。すると、近くのエレベーター前で、先程の関本と看護師が誰かを交えて話をしている場面に遭遇した。  話している相手が見えず、遠目に覗くと、そこには車椅子の前にしゃがんだ雪森がいた。検査帰りの関本と偶々廊下で会って、話し掛けられでもしたのだろう。  一見、体育の授業が怠くてしゃがみ込んでいる学生みたいな雰囲気だが、その目線はしっかり関本に合っていた。いや、合っているのではない。背の高い雪森が、わざわざしゃがんで目線を合わせているのだと分かった。  その時、話が終わったのか雪森が立ち上がり、こちらに気付くと近づいて来た。 「おつかれ」 「お疲れさま。休憩なの?」 「ん。売店行こうと思って」  白衣のポケットに手を突っ込みながら雪森が首をポキポキと鳴らした。 「俺も行くとこ」 「じゃあ行こ」  二人並んで売店に行くと、それぞれ昼食を買って職員玄関から外に出た。初めて挨拶を交わした日と同じような気持ちの良い天気の中、ベンチに腰を下ろす。 「さっき関本さんと話してたね。俺、午前中に検査したんだ。誉が昨日診たって急患、関本さんのことだったんだね」 「あぁ。また、早く家帰んなきゃとか言ってたろ」 「言ってた」  お父さんの世話しなきゃと言っていた関本の顔が浮かんだ。 「まぁ割とすぐ退院出来るとは思うけど。息子が一緒に暮らしてるらしいんだけど、ほぼ老老介護なんだよな」  退院してもまた無理しそうで怖えよ、とぼやく。 「病院のソーシャルワーカーに繋げて、どうにかなるといいんだけどさ」  コーヒーを啜りながら、案じ顔の雪森が呟く。そっけない物言いだが、なんだかんだ心配しているその様子に、つい目元がなごむ。  そこで話が途切れ、冬木は前から気になっていたことを訊ねようと思った。 「誉はなんで医者になろうと思ったの? 家が病院とか?」 「いや、家族に医療関係者一人もいねえ」 「じゃあ医者に憧れがあったとか?」 「全然」  雪森は手持ち無沙汰な様子で、中身の少なくなった缶をゆらゆらと揺らしている。 「理由とか特に無えよ。学校の成績良かったから。それだけ」 「えっ、それで?」 「担任とか周りに勧められて、まぁいいかって思って受験したら医学部受かって、あとは成り行き」  意外だった。人の命を直接預かるような仕事に成り行きで就こうという考えが、冬木の中では想定外であったからかもしれない。 「でも逆に、その動機でめちゃくちゃ責任あるハードな仕事頑張れるの凄くない?」 「いや、今は違う。実際に仕事する前までだよ。そんなん」  買った弁当の包装を怠そうに破きながら雪森が話す。 「学生時代は、ただ機械的に目の前の課題を片付けてたって感じだな。でも、初期研修で臨床に携わってから、これ仕事にすんの悪くないなって思った」 「成り行きじゃなくなったんだ?」 「ん。人の生き死にってさ、自分じゃどうすることもできない見えない力みたいなのがいくつも重なってんだなって思うことがよくあんだよ。いつどこで倒れたかとか、どこに搬送されたかとか……まぁ他にも色々。で、患者からしたら俺ってその不可抗力のひとつなんだなって気付いたら、うわー、やべぇって思った。それが医者として自分の仕事頑張ろうと思う動機になってる気がする」  先程までと打って変わって、瞳に雪森独特の力強さが一瞬、垣間見えた気がした。 「俺が関わることで、患者のプラスになると良い。そうなるようにと思って働いてる」  そう言ってこちらを向いた雪森の表情が柔らかくて、冬木は胸が苦しくなった。けれど決して不快な苦しさでは無い。雪森の顔を見てそんな気持ちになるのが不思議だった。  同時に、以前北野が言っていた言葉が頭をよぎっていた。雪森が当直医だった日に、北野がオンコール当番だった、その翌日のものだ。  ——雪森先生、この先どんどん良い先生になっていくんだろうな。  書かれたカルテ、診療時間外用に適切に絞って出されたと分かる検査の項目、患者に目線を合わせる姿勢。少しではあるが雪森の仕事の断片を目にして、あの日の北野の言葉の意味がなんだか分かった気がしていた。  「良い先生」という部分には、雪森の内面についての印象も含まれていたのではないだろうか。  冬木も雪森を見ている中で、その内面に関して気付くことがあった。例えば、素っ気ないように見えて、案外違う。一見強引だったり図々しく思えても、決して他人の領域を踏み荒らすようなことはしない。悪いと思えば素直に謝罪する潔さもあった。  その日のことを思い起こすと、原の話に出てきた「雪森のことを不安に思う患者さん」に対して、冬木は声を大にして言いたくなった。  「僕は何かあったら、この人に診てもらいたいと思いますよ。そんな先生ですよ」と。
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