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 雪森と話すようになってから早ニヶ月程が過ぎた。  茹だるような暑さはもうすっかり夏だ。病院の周りの花壇では、ずらりと並んだ立葵の花達が背比べをしている。  雪森は変わらずふらりとやって来ては、冬木の部屋に泊まっていった。  夜に来る時は大抵、夕飯としてカップ麺か、コンビニの弁当を持っている。そして、特にこちらから言ったわけではないのだが、翌日にはきちんとそのゴミを持って帰っていった。  偶に医局でもらったというお菓子や飲み物をお土産に持ってきてくれたり、夕飯のついでにコンビニ菓子なんかを買ってきてくれたりもした。雪森なりに気を遣っているんだろうなと思う。  それにしても、「医者の不養生」を地で行くような食生活を見るにつけ、冬木はだんだんと雪森の体のことが気掛かりになっていた。  そんな折、いつものようにやって来るなりカップ麺を開けようとしている雪森に、夕飯を出したことがあった。その日、自分用に作っていたおかずを取り分けておいたものだ。  冬木は基本的に家での食事を自炊している。学生時代から一人暮らしだった為、節約の為にと始めた自炊も、今では然程苦にならない習慣となっていた。凝ったものは作らないが、野菜不足にならないようにとメニューを考えるくらいのことはしている。  なんとなくの気恥ずかしさから、冬木はおかずを作り過ぎたからという体で勧めた。雪森は温めた冷凍ご飯と共に、出されたおかずをぺろりと平らげた。  ——誉って食べられないものとかあるの?  ——いや、何でも食う。  そんなことがあってから、冬木は毎日おかずを多めに作るようになった。  取り分けておいて、自分の朝ごはんにするのだ。そう思って、冷蔵庫に入れておく。しかし雪森が来れば、躊躇うことなくそれらを出した。  丁度おかずが余っている時に、腹を空かせた雪森が来た。だから自分はそれを出しただけであって、なにも特別なことは無い——そう自分に言い聞かせて、毎日取り分けたおかずの皿にラップを掛ける。  雪森は美味いとも言わないが不味いとも言わない。けれども毎回、お皿の前で律儀に頂きますとご馳走様を言い、米粒、野菜くずひとつ残らず綺麗に食べてくれた。それが妙に嬉しかった。  雪森と病院の職員食堂で偶然会うことがあれば、夕飯代と言って食券を買ってくれる。でも食券をくれることよりも、その後同じテーブルで、雪森と一緒に昼食をとれることが冬木にとっては特別だった。  雪森が来るようになって変わったことといえば、頻繁に風呂の湯を張るようになった。  冬木は普段、シャワー派だが、雪森から「行く」とのメッセージを受け取ると、いそいそと給湯ボタンを押す。そして雪森がやって来ると、「お湯まだ流してないけど使う?」と聞くのだ。あたかも自分が入ったついでですけど、といった顔をして。  たっぷりと湯船を満たすお湯は真新しい。朝いちで病棟に顔を出し、外来をこなして、午後はまた病棟や急患対応、勤務外でも学会や勉強会もあるだろう。そんな雪森の疲れを、湯に浸かることで少しでも溶かし出して欲しかった。  そして今日、土曜日の夜——例のごとく準備しておいた風呂に今、雪森が浸かっている。  車で一時間程の場所で催された研修会に参加後、担当する入院患者の容態が不安定になり診に来た帰りなのだという。雪森が土曜の夜に泊まりに来るのは初めてだった。  雪森が風呂場に行くと同時に、冬木はテレビをつけ、週末の報道バラエティーを流した。さして興味がある訳でも無い芸能ニュースを熱心に観る。  扉の向こうから、シャワーの湯が浴室のドアを叩く音が聞こえてくると、冬木はリモコンを手に取り、隣室から苦情が来ない程度に音声のボリュームを上げた。  どうもこのところ、雪森が風呂に入ると気持ちが落ち着かない。雪森も自分も男で、同性同士だというのに、この感覚はなんなんだろうか。  これまでも学生時代の友人が泊まりに来たことは何度かあった。でも、こんな気持ちになったことは無い。  そんなことを考えていた時、浴室の方からエコーのかかった声が聴こえた。 「シャンプーの替えってどこにある? 無くなったから出していいか」  しまった。シャンプーの残りがないことには昨日の内から気づいていたのに、次に風呂に入る時でいいやと思って失念していた。替えのパックは廊下に置かれたエコバッグの中にある。  シャワーを浴びて濡れた雪森に廊下に取りに来いとも言えず、パック片手に浴室へと向かう。しかし、脱衣所のドアの前に来た所で足が止まった。  心臓のリズムが、明らかにいつもより速くなっている。息をするのもうっすら苦しく感じつつ、ドアノブに手を掛けた。今このドアを開けて、もし雪森が浴室から体をこちらに覗かせていたりしたら、などと思うと中々手が動かない。  呼吸を整えた後、決死の覚悟で中をそっと覗き込むと、果たして浴室の扉は閉まっていた。少しほっとして、脱衣所へと入る。  扉に嵌め込めれたプラスティックの板一枚隔てて雪森のシルエットが見える。透ける肌の色に、咄嗟に扉から目を逸らした。ペールオレンジのシルエットは、この向こうにいる雪森の裸を否応なしに想像させた。 「誉。持って来たから、そこの扉少しだけ開けて。隙間から渡すから」 「は? なんて?」 「持っ、て、きーたーかーらー」  浴室の雪森に聞こえるよう、大きい声で繰り返そうとしていた時だった。 「聞こえねぇ」  ガチャリと音がして、立ち昇る湯気と共に雪森が思いきり外に出て来た。  思わず叫びそうになるのを懸命に飲み込む。 「……、これ」  視線を雪森の顔に固定したまま、手に持っていた詰め替えパックを渡す。 「ありがと」  パックを受け取ると、雪森は涼しい顔で浴室へと引っ込んでいった。 「……」  思いきり、見てしまった。  網膜に焼き付く雪森の姿はフラッシュを見た後の視界のように白んでいて、細部までは思い起こせない。  しかし、後ろに撫で付けられた濡れた前髪や、初めて見る綺麗な額、不摂生をしている割には腹筋がうっすら割れて引き締まった腹——そういった断片的な光景が、まるで写真のように頭にこびりついている。  急にアクセルを踏んだかのように速くなる鼓動に胸を叩かれながら、冬木は部屋へと戻った。  テレビからは今もバラエティの賑やかな声が流れている。  しかし、どの話題も耳を右から左へと流れていってしまって、全く頭に入ってこなかった。
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