黒船が来たぞ

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黒船が来たぞ

 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国の軍人マシュー・ペリー率いる艦隊(船の色から黒船艦隊などともいわれる)が、江戸湾の入口にあたる浦賀沖(現・横須賀市)に現れた。船の色から黒船艦隊ともいわれた。  19世紀、清(中国)との貿易をめぐり米国の最大のライバルは大英帝国だった。清のお茶や絹などの豊かな産物と大きな市場が狙いだった。アメリカは不利な状態だった。大英帝国はインド洋を通ればいいのに対し、アメリカは、大西洋を通って欧州に行き、それからインド洋を渡っていたからだ。ペリーは、太平洋を渡って清に渡れば大英帝国に勝てると考えた。日本に開港させる目的は、中継基地として複数の貯炭庫の確保だ。貿易には然程興味のない状態での開港要求だった。唯一、興味があったのは日本の貨幣である小判(金)だった。貴重な金を貨幣に用いている。これを銀貨と交換すれば大儲けできる。為替の知識も意味も分からない日本は、絶好の鴨だった。  翌1854年、日本はアメリカ側の圧力に屈してペリーを通じて「日米和親条約」を結び、開港を余儀なくさせらえた。この時はまだ、開国ではなく単なる開港だ。  これを機会に日本は明治維新に向けて激動の「幕末」の時代に向かうがそれは別の話だ。  米国はペリー来航の7年前の1846年にアメリカの軍人ビッドルが、2隻の帆走式の軍艦を率いて浦賀にやってきていた。温厚だったビッドルは頑なに開国を拒む幕府に絆され帰国。その前例があったため、ペリーは威圧的に幕府に挑んだ。日本人が見たこともない蒸気船の軍艦。射程距離7km以上、砲身の内側にライフリング(打ち出す弾に回転を与えるためのらせん状の溝)が施され弾すれば炸裂する榴弾の破壊力と命中精度もある。さらにボートホイッスル砲という持ち運び可能な小型の大砲も装備していた。丸い玉が飛ぶだけの日本の大砲とは段違いだった。  米艦隊の乗員と最初に接触したのは浦賀奉行の役人・中島三郎助。ペリーは、サスケハナ号の内部を見学させた。艦隊の恐ろしい武力を江戸城の首脳に報告させた。  中島三郎助から報告を受けた幕府首脳は慌てふためいた。前回の温厚なビッドルと違いペリーは、砲門を開いていつでも攻撃可能という戦闘状態でやってきたからだ。  江戸湾深く入り込まれれば江戸城が危ない。浅瀬でもカッターボートに載せて運ばれれば、どこからでも砲撃される。  「奴らの目的は何だ」  「この国を奪う気か」  「そもそも外交は長崎の役目。そちらに向かわせれば…」  困惑する幕府を嘲笑うようにペリーは「いつでも攻撃できるぞ」と凄んで見せた。考えさせてくれと時間を稼いだが拒否する方法が見当たらない。  水戸藩主・徳川斉昭と腹心の水戸学の思想家・藤田東湖は、ペリーたち米国使節団の殺害方法を模索していた。  「どうする、どう致す」  「これは如何でしょう。相手を油断させ打ち解けた所で仕掛けを施した屋敷に閉じ込め、火を放てば一網打尽」  「それでは残った者が仇討だと本気で襲い掛かって来るのでは」  「では、友好の証として酒宴を設け酔わせ、首を撥ねる。仕留めた後、狼煙を上げ、品川当たりに待機させた者に、船に残った者を切り捨てさせると言うのは」  「う~ん」  どれもこれもその場凌ぎで今後を思えば良案ではない。もし、失敗でもしようものなら、結局、武力行使もちらつかせるペリーに屈してしまう。江戸の町に艦砲射撃などされては大砲の射程距離からして日本側はまったく反撃不可能に。大英帝国がアヘン戦争で清を侵略したように日本も二の舞に。「日本を守れんような幕府などいらん!」と内部からは有力な大名が倒幕を狙ってくる。征夷大将軍は、夷人つまり異民族・外国人を退治するために朝廷から委任された官職だけに幕府は逃げ道を失くしていた。  「行くも地獄、行かぬも地獄」「後は野となれ山となれ」と幕府は浦賀の隣にある久里浜 に臨時の応接所をつくってペリーたちを上陸させて迎え入れ、アメリカ大統領の親書を受け取った。ペリーは上機嫌になり「また来年来るから。いい返事を期待してる」と言い捨てて、日本を去った。  幕政の最高責任者である老中首座・阿部正弘は周囲に気配りをし調整してスムーズに事を進めようというタイプ。多くの意見を聞くことは平時ではうまくいくものも、国の安危を左右する重要場面では通じない。阿部は「この国難に際して日本はどうすべきか、皆の意見を?」と問うた。「皆」とは、大名から庶民まであらゆる階層だ。民主主義では当然だが、「船頭多くして船山に上る」のように方向性を見失う危険性も。事実、蚊帳の外におかれていた外様大名はここぞとばかりに徐々に口出しし始める。  鎌倉幕府の執権・北条時宗 はモンゴル(元)からの使者を一刀両断に切り捨てた盤石さは消え失せ、相対的に幕府の力が弱まってしまった。  阿部正弘の協調精神は結果的に幕府の命を縮めてしまった。一方では危機に対処するため人材発掘に尽力したお蔭で、勝海舟や岩瀬忠震 《ただなり》、川路聖謨(かわじとしあきら)、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎など多くの有能な人材が活躍する。  ペリーは香港で待機し、7カ月後の嘉永7年1月16日(1854年)、再び浦賀にやって来た。前回の軍艦4隻を9隻として。ペリーなりの脅しだった。  唯一西洋諸国で交易関係があったオランダは、「世界情勢を考えれば、取り残されるか植民地にされますよ。鎖国をやめないとヤバいですよ!」と忠告されていた。    「好むと好まざるとに関わらず、自分だけがのんびり暮らすということは許されない時代」になっていた。  浜に応接所が作られて、日本側の代表・林復斎がアメリカ側と1カ月の交渉を続けて、日米和親条約が結ばれた(嘉永7年3月3日(1854年)。 条約で日本は下田と箱館の2港を開き、薪水・石炭・食料などをアメリカに提供し、難破船の乗員を救助することなどが決められた。この時点では、通商(貿易)を行うことは除外された。本当の意味での開国は、日米修好通商条約になる。
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